「中国五千年史」- 新石器時代から現代まで、王朝・人物・出来事をスクロールして辿る
「皇帝」という称号は、紀元前221年に秦の始皇帝が初めて名乗り、1912年に清の宣統帝(溥儀)が退位するまで、約2100年にわたって受け継がれました。 分裂期の諸国まで数えると、その数は400人前後にのぼるといわれます。
このページでは、統一王朝と三国・南朝・五代の皇帝179人を、在位の順にひとこと解説付きで紹介します。★は特に有名な皇帝です。
中国の皇帝は本名で呼ばれることはほとんどなく、時代によって一般的な呼び名の付け方が変わります。
史上初めて中国を統一し「皇帝」の称号を生んだ王朝。わずか15年で滅んだ。
六国を滅ぼして中国を統一。文字・度量衡・貨幣を統一し、郡県制を敷いた。 人物ページへ →
宦官趙高に操られ、「鹿を指して馬となす」の故事を生んだ。最後は自害に追い込まれる。
皇帝号をやめて秦王を名乗り、趙高を誅殺。在位46日で劉邦に降伏した。
農民出身の劉邦が開いた約200年の王朝。武帝の時代に最大の版図を築いた。
農民から身を起こし、項羽を破って漢を建国。人を使う才で天下を取った。 人物ページへ →
母・呂后の苛烈な粛清に心を病み、政治を顧みなくなったと伝わる。
呂后が実権を握る傀儡。呂后への恨み言が漏れて廃位・殺害された。
呂后の死後、呂氏一族が粛清されると、ともに殺害された。
減税と倹約で民を休ませ、子の景帝とあわせて「文景の治」とたたえられる。
諸侯王の領地を削って呉楚七国の乱を招くが、これを鎮圧し中央集権を進めた。
匈奴を討ち西域へ進出、儒教を重んじた。在位54年で漢の全盛期を築く。 人物ページへ →
8歳で即位し、重臣霍光の補佐のもと武帝の遠征で疲弊した国力の回復に努めた。
品行の悪さを理由にわずか27日で廃位。近年その墓から大量の金が出土し話題になった。
武帝の曾孫ながら民間で育った苦労人。官吏の綱紀を正し、漢を中興させた。
儒教を重んじた温和な皇帝。後宮の王昭君を匈奴の単于に嫁がせた。
趙飛燕姉妹を寵愛。外戚の王氏が台頭し、王莽の簒奪への道を開いた。
寵臣董賢の眠りを妨げぬよう袖を切った「断袖」の故事で知られる。
9歳で即位し、実権は王莽が掌握。14歳で死去し、王莽による毒殺説がある。
2歳で皇太子に立てられたが正式には即位せず、「仮皇帝」王莽に位を奪われた。
外戚の王莽が漢から帝位を奪って建てた一代限りの王朝。
周代を理想とする復古的改革を強行して社会を混乱させ、赤眉の乱などの反乱で滅んだ。 人物ページへ →
劉秀が再興した漢。幼い皇帝が続き、外戚と宦官の争いの中で衰えていった。
漢を再興した名君。57年に倭の奴国に「漢委奴国王」の金印を授けた。 人物ページへ →
班超を西域に派遣。夢に見た金人を求めて仏教を迎えたという伝説が残る。
寛大な政治で知られ、父の明帝の時代とあわせて「明章の治」と呼ばれる安定期を築いた。
宦官と結んで外戚竇憲を排除し、宦官台頭の先例を作った。蔡倫の紙もこの時代。
生後100日余りで即位し、1年足らずで死去した中国史上最年少の皇帝。
長く鄧太后が摂政を務めた。親政後は乳母や宦官を重用し政治が乱れた。
外戚閻氏に擁立されたが、在位約7か月で病死した。
宦官孫程ら19人のクーデターで即位。宦官に養子を認め、その力を強めた。
2歳で即位し、わずか5か月ほどで死去した。
8歳で外戚梁冀を「跋扈将軍」と呼んだため、梁冀に毒殺された。
宦官と結んで梁冀を倒したが、今度は宦官が専横。党錮の禁で官僚を弾圧した。
官職を金で売るなど政治は腐敗をきわめ、184年に黄巾の乱が起きた。
即位の数か月後、洛陽に入った董卓に廃位され、翌年殺害された。
董卓、のちに曹操に擁された後漢最後の皇帝。曹丕に帝位を譲った。 人物ページへ →
曹操の子曹丕が建国。三国最大の国力を誇ったが、重臣の司馬氏に実権を奪われた。
献帝から禅譲を受けて魏を建国。九品官人法を定め、文学者としても名高い。
諸葛亮の北伐を司馬懿らに防がせた。晩年は宮殿の造営に熱中した。
卑弥呼に「親魏倭王」の印が届いたのはこの治世の初め。司馬師に廃位された。
「司馬昭の心は路人も知る」と言い放ち、自ら兵を率いて司馬氏に挑んだが殺害された。
在位中に蜀が滅亡。最後は司馬炎に帝位を譲った。
孫権が長江下流域に建てた国。三国の中で最後まで残った。
赤壁で曹操を退け、江南に独立政権を築いた。晩年は後継者争いで国を乱した。 人物ページへ →
10歳で即位。専横する重臣孫綝を除こうとして逆に廃位された。
孫綝に擁立されたが、計略をめぐらして孫綝を誅殺した。
残虐な暴政で人心を失い、晋軍に降伏。これで三国時代が終わった。
司馬氏が建て、280年に三国を統一した王朝。一族の内乱と北方民族の侵入で崩壊した。
呉を滅ぼし中国を再統一。統一後は羊の引く車で後宮を回るほど享楽に溺れた。
飢饉の報告に「なぜ肉の粥を食べないのか」と言った暗君。八王の乱を招いた。
311年の永嘉の乱で匈奴の漢(前趙)軍に捕らえられ、のちに殺害された。
長安で即位したが包囲されて降伏。西晋はここに滅んだ。
華北を失った晋の一族が江南で再建した王朝。皇帝の力は弱く、名門貴族が政治を動かした。
名門王導らの支持で江南に晋を再建。「王と馬、天下を共にす」と言われた。
父を苦しめた王敦の乱を平定し、皇帝の権威を立て直した。
5歳で即位。蘇峻の乱で一時都を占拠され、幽閉された。
兄の成帝から位を継いだが、2年ほどで死去した。
桓温が蜀の成漢を滅ぼした。王羲之の「蘭亭序」もこの時代(353年)。
不老長生の丹薬を飲み続けて体を壊し、25歳で死去した。
権力者桓温に根拠の薄い醜聞を理由に廃位された。
桓温に擁立された清談好きの皇帝。1年足らずで死去。
383年の淝水の戦いで前秦の大軍を撃退。寵姫に冗談を言ったため殺害された。
寒暑も分からなかったという皇帝。桓玄に一時帝位を奪われ、最後は劉裕に殺害された。
劉裕に帝位を譲り、東晋は滅亡。翌年殺害された。
劉裕が建てた南朝最初の王朝(劉宋)。倭の五王が使いを送った相手でもある。
貧しい家から軍功で成り上がり、北伐で長安を一時取り戻した。
遊びにふけって政務を怠り、重臣たちに廃位・殺害された。
30年の安定した治世は「元嘉の治」と呼ばれる。最後は皇太子に殺害された。
父を殺した兄を討って即位。皇帝権力の強化に努めた。
叔父たちを「猪王」などと呼んで虐待した暴君。1年余りで殺害された。
「猪王」と呼ばれた本人。即位後は甥や兄弟を次々と殺した。
気まぐれに人を殺す暴君で、将軍蕭道成の差し金で殺害された。
倭王武の上表文を受けた皇帝。「二度と帝王の家には生まれたくない」と言い残した。
蕭道成が建てた(南斉)。わずか23年の間に7人の皇帝が立った。
宋の将軍から禅譲を受けて即位。倹約を重んじた。
治世は「永明の治」と呼ばれ、南斉で最も安定した時代となった。
国庫を浪費し、一族の蕭鸞に殺害された。
蕭鸞の傀儡として立てられ、3か月ほどで廃位された。
自ら即位した後、高帝・武帝の子孫をほぼ皆殺しにした。
寵妃潘氏に金の蓮の上を歩かせ「歩歩蓮華を生ず」と喜んだ暴君。
蕭衍に擁立され、翌年その蕭衍に帝位を譲った。
蕭衍(武帝)の約50年の治世で南朝文化が最盛期を迎えたが、侯景の乱で崩れた。
仏教に深く帰依し、何度も寺に「捨身」した「皇帝菩薩」。侯景の乱で幽閉され餓死した。
艶やかな「宮体詩」の担い手。侯景の傀儡とされ、のちに殺害された。
江陵で西魏軍に敗れる直前、「読書万巻なお今日あり」と蔵書14万巻を焼いた。
陳霸先に擁立され、のちに帝位を譲った。
陳霸先が建てた南朝最後の王朝。隋の統一によって滅んだ。
侯景の乱の平定で頭角を現し、梁から帝位を譲られた。
武帝の甥。各地の反対勢力を破り、国内を安定させた。
叔父の陳頊に実権を握られ、廃位された。
北伐で淮南を奪ったが、北周に取り返され国力を消耗した。
詩と宴に明け暮れた亡国の君主。隋軍が来ると寵姫と井戸に隠れた。
約300年ぶりに中国を再統一した王朝。大事業を急ぎすぎて2代で滅んだ。
589年に陳を滅ぼし中国を再統一。試験で官吏を選ぶ科挙を始めた。
大運河を完成させ、高句麗遠征に失敗。「日出づる処の天子」の国書を受けた皇帝。
長安に入った李淵に擁立され、翌年李淵に帝位を譲った。
約290年続いた世界帝国。前半に繁栄を極めたが、安史の乱以降は宦官や節度使の力が強まった。
隋末の混乱の中で挙兵し唐を建国。玄武門の変の後、子の李世民に位を譲った。
諫言をよく聞き入れ、「貞観の治」と呼ばれる理想の政治を行った名君の代名詞。 人物ページへ →
白村江の戦い(663年)で倭・百済軍を破り、高句麗も滅ぼした。政治の実権は武后へ。
母の武后にすぐ廃位され、のちに復位。皇后韋氏に毒殺されたといわれる。
武后の傀儡として一度、韋后打倒後に再び即位。子の玄宗に位を譲った。
国号を「周」と改めて自ら即位した、中国史上ただ一人の女帝。 人物ページへ →
韋后に擁立されたが、韋后が倒されると半月余りで退位させられた。
前半は「開元の治」で唐の全盛期を築いたが、晩年は楊貴妃に溺れ安史の乱を招いた。
安史の乱のさなか、霊武で即位してウイグルの力も借りて反乱軍と戦った。
763年に安史の乱を終わらせたが、各地の節度使の自立は止められなかった。
780年に両税法を施行。節度使の反乱で一時都を追われた。
病身で即位し「永貞の改革」を試みたが、半年余りで退位させられた。
反抗的な節度使を抑えて「元和中興」を実現。最後は宦官に殺害された。
遊びを好んで政治を怠り、丹薬の服用で体を壊して死去した。
夜の狐狩りや撃毬に熱中した少年皇帝。18歳で宦官に殺害された。
宦官一掃を狙った「甘露の変」に失敗し、以後は宦官の言いなりとなった。
大規模な仏教弾圧「会昌の廃仏」を行った。留学僧円仁がこれを目撃している。
倹約と勤勉な政治で「小太宗」と呼ばれた、晩唐の名君。
贅沢と仏舎利の盛大な奉迎で国庫を傾け、反乱が相次いだ。
黄巣の乱で長安を追われ成都へ逃れた。撃毬の名手を自負していた。
唐の立て直しを図ったが軍閥に翻弄され、朱全忠に殺害された。
朱全忠に帝位を譲って唐は滅亡。翌年毒殺された。
後梁・後唐・後晋・後漢・後周の5王朝が、約50年の間に華北で次々と興亡した。
黄巣軍の部将から唐に寝返り、ついに唐を滅ぼした。息子に殺害された。
父の朱全忠を殺して即位したが、翌年弟に討たれた。
宿敵李存勗に都を攻められ自害。後梁は滅んだ。
戦場では無敵だったが、即位後は役者を寵愛して自らも舞台に立ち、反乱で落命した。
沙陀族出身で字が読めなかったが善政を敷いた。儒教経典の木版印刷が始まった。
義兄の李従珂に帝位を奪われ、殺害された。
石敬瑭と契丹の連合軍に敗れ、一族とともに楼閣に火を放って死んだ。
契丹の力を借りて即位し、燕雲十六州を割譲。「児皇帝」と呼ばれた。
契丹への臣従を拒んで戦ったが敗れ、捕らえられて北方へ連れ去られた。
契丹軍が引き上げた後の開封に入って即位。1年足らずで病死した。
重臣を次々に殺し、郭威の家族まで手にかけたため反乱を招き殺害された。
兵士に推されて即位。民の負担を減らし、五代の中では珍しく堅実な政治を行った。
五代随一の名君。南唐から淮南を奪い、統一目前で病に倒れた。
7歳で即位。陳橋の変で趙匡胤に帝位を譲った。
武人を抑え文官が政治を担う「文治主義」の王朝。経済・文化は栄えたが、北方民族の圧迫に苦しんだ。
部下に黄袍を着せられて即位(陳橋の変)。酒宴で将軍たちの兵権を返上させた。
979年に北漢を滅ぼし統一を完成。兄・太祖の急死には「燭影斧声」の謎が残る。 人物ページへ →
遼と「澶淵の盟」を結び、毎年の贈与と引き換えに平和を得た。
在位41年は宋で最長。范仲淹や包拯ら名臣が活躍した。
実父の呼称をめぐる論争「濮議」で朝廷が二分された。
王安石を起用して富国強兵の「新法」を推進。新法党と旧法党の対立が始まった。
祖母の摂政期は旧法党、親政後は新法党を用い、政策が大きく揺れた。
書画の天才(痩金体)だが政治は乱れ、靖康の変で金に連れ去られた「風流天子」。
父の譲位で即位した直後に金軍に開封を攻略され、父とともに北方へ連行された。
金に華北を奪われた宋が江南で再建した王朝。最後はモンゴルに滅ぼされた。
金との和平を優先し、抗戦を主張する岳飛を処刑。「紹興の和議」を結んだ。
岳飛の名誉を回復した南宋随一の名君。北伐は失敗したが内政を整えた。
嫉妬深い皇后に振り回されて心を病み、父の葬儀にも出なかったため退位させられた。
朱熹の学問が「偽学」として弾圧された(慶元の党禁)。金への北伐も失敗した。
モンゴルと組んで1234年に金を滅ぼした。朱子学を国の正統な学問に定めた。
政治を宰相賈似道に任せきりにし、要地襄陽をモンゴル軍に奪われた。
臨安を包囲されて元に降伏。のちにチベットで出家した。
臨安陥落後、福州で擁立された。元軍に追われて南へ逃れる途中で病死した。
崖山の戦いで敗れ、重臣陸秀夫に背負われて海に身を投げた。8歳だった。
モンゴル帝国の第5代ハン、クビライが中国に建てた王朝。ハンの位をめぐる争いが絶えなかった。
国号を「大元」と定め、南宋を滅ぼした。日本へも二度にわたって軍を送った(元寇)。 人物ページへ →
祖父クビライの遠征路線を改め、日本への三度目の出兵計画を中止した。
恩賞をばらまき、新しい紙幣を乱発して財政を悪化させた。
儒教を学んだ皇帝で、元で初めて科挙を実施した(1315年)。
改革を進めたが、反発した重臣らに南坡で暗殺された(南坡の変)。
英宗暗殺後、モンゴル高原から迎えられて即位した。
泰定帝の死後に即位したが、内乱(天暦の内乱)に敗れて行方不明となった。
内乱に勝って即位。一度兄に位を譲ったが、兄の急死で復位した。
弟の文宗から位を譲られたが、わずか数か月で急死。毒殺説が根強い。
7歳で即位し、2か月足らずで死去した。
紅巾の乱が広がる中、明軍に大都を追われてモンゴル高原へ退いた(北元)。
漢民族が再び建てた王朝。皇帝一代に年号を一つだけ用いる「一世一元」が始まり、年号で皇帝を呼ぶようになった。
貧農の子で托鉢僧から皇帝に。宰相を廃止して独裁を強め、功臣を大量に粛清した。
叔父たちの力を削ろうとして靖難の変を招き、都の陥落とともに行方不明となった。
甥から帝位を奪い北京へ遷都。紫禁城を造営し、鄭和の大航海を命じた。
父の遠征で疲れた民を休ませる政策をとったが、1年足らずで病死した。
父とあわせて「仁宣の治」と呼ばれる安定期を築く。コオロギ相撲を好んだことでも知られる。
土木の変でオイラトの捕虜となる。帰国後は幽閉されたが、クーデターで復位した。
兄が捕らわれた危機に即位し、于謙とともに北京を守り抜いた。
19歳年上の万貴妃を生涯寵愛。政治は宦官に任せがちだった。
皇后ただ一人だけを妻とした珍しい皇帝。勤勉な政治で「弘治中興」と呼ばれる。
遊びのための宮殿「豹房」に入りびたり、自らを「大将軍」に任命して出陣した奔放な皇帝。
道教に傾倒して20年以上朝議に出ず。宮女たちに絞殺されかけた事件(壬寅宮変)もある。
海禁を緩めて民間の海外貿易を認め、モンゴルとも和議を結んだ。
張居正の改革で国力を回復したが、その死後は30年近く政務を放棄。秀吉の朝鮮出兵に援軍を送った。
即位から約1か月後、「紅丸」という薬を飲んだ翌日に急死した(紅丸事件)。
大工仕事に熱中し、政治は宦官魏忠賢の思うがままになった。
魏忠賢を排除し立て直しに奔走したが、李自成軍に北京を攻め落とされ景山で自ら命を絶った。
満洲族が建てた中国最後の王朝。康熙・雍正・乾隆の3代で最大の版図を築いた。
女真族を統一して後金を建国し、軍事・行政組織「八旗」を創設した。
1636年に国号を「清」と改めて皇帝を名乗り、民族名も「満洲」と定めた。
6歳で即位。叔父ドルゴンのもとで1644年に山海関を越えて北京に入った。
在位61年は中国史上最長。三藩の乱を平定し台湾も併合した、清の黄金期の礎を築いた名君。 人物ページへ →
軍機処を設け、後継者名を箱に隠す「太子密建」を始めた猛烈な働き者。
清の最大版図を実現し「十全老人」と自称。祖父の在位年数を超えないよう退位した。
父の死後すぐ汚職大臣和珅を処断。白蓮教徒の乱の鎮圧に苦しんだ。
アヘンの取り締まりからイギリスとのアヘン戦争に敗れ、南京条約を結んだ。
太平天国の乱に加え、アロー戦争で英仏軍が北京に迫り熱河へ逃れた。
母の西太后が実権を握る。「同治中興」と呼ばれる立て直しの時期だが、19歳で死去した。
戊戌の変法で近代化を目指したが、西太后に幽閉された。遺髪からヒ素が検出されている。
2歳で即位した「ラストエンペラー」。辛亥革命で退位し、のちに満洲国の皇帝となった。
孫の乾隆帝は祖父に遠慮して60年で退位したが、その後も上皇として実権を握り続けた。
前漢の劉賀(27日)、明の泰昌帝(約1か月)も短命の皇帝として知られる。
後漢では幼帝が続き、外戚や宦官が権力を握る原因となった。
2位は梁の武帝(85歳)。ただし武帝は侯景の乱で幽閉され、餓死同然の最期だった。
皇后や皇太后として権力を握った女性は多いが、自ら即位したのは彼女だけ。
農民出身で天下を取った二人。朱元璋は托鉢僧だった時期もある。
なお清の滅亡後にも、1915年に袁世凱が帝政を宣言して「洪憲帝」を名乗りましたが、国内外の反発を受けてわずか83日で取り消しています。
最初の皇帝・始皇帝の生涯や、歴代王朝が都を置いた場所についても別ページでまとめています。