CHINESE HISTORY TIMELINE
中国史年表

「中国五千年史」- 新石器時代から現代まで、王朝・人物・出来事を年表と地図で辿たどる。日本史との対照や、歴史小説・漫画の紹介も

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中国四大美女とは?

西施せいし・王昭君おうしょうくん・貂蝉ちょうせん・楊貴妃ようきひの四人は、中国の歴史と物語に登場する女性の中でも特に美しかったとして「中国四大美女」と呼ばれる。四人の美しさは「沈魚落雁ちんぎょらくがん、閉月羞花へいげつしゅうか」という言葉で表され、魚が沈しずみ、雁がんが落ち、月が隠れ、花が恥はじらうほどだったという。いずれも美しさだけでなく、国の興亡や外交、権力争けんりょくあらそいに深く関わった人物として語り継がれてきた。

西施1
清代の画集『古今百美図ここんひゃくびず』に描かれた西施せいしと、ともに呉ごへ送られた鄭旦ていたん / Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

西施せいし

春秋時代末期(前5世紀)・越えつ

呉王ごおう夫差ふさを骨抜ほねぬきにした越えつの美女

越えつの苧蘿村ちょらそんで生まれ、川で紗しゃ(薄い絹布)を洗っていたところを見出されたと伝わる。会稽かいけいで呉ごに大敗した越王えつおう勾践こうせんは、重臣じゅうしん范蠡はんれいの策により西施せいしを呉王ごおう夫差ふさに献上けんじょうした。夫差ふさは西施せいしに溺れて政治を怠るようになり、やがて呉ごは前473年に越えつに滅ぼされた。その後の消息しょうそくは、范蠡はんれいとともに五湖ごこへ去ったとも、長江に沈しずめられたともいわれる。胸むねを病んで眉まゆをひそめる姿まで美しく、それを真似まねた村の女がかえって人に避けられたという『荘子そうじ』の話は、故事成語こじせいご「顰ひそみに倣ならう」の由来となった。日本でも松尾芭蕉まつおばしょうが『奥おくの細道ほそみち』で「象潟きさかたや雨に西施せいしがねぶの花」と詠んでいる。

「沈魚ちんぎょ」の由来:川面に映る姿に見とれた魚が泳ぐのを忘れて沈しずんだ
史実では:『史記』など正史には名が見えず、後漢の『呉越春秋ごえつしゅんじゅう』『越絶書えつぜつしょ』などで物語が整えられた伝説的でんせつてきな人物。
王昭君2
清代の画集『古今百美図ここんひゃくびず』に描かれた王昭君おうしょうくん / Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

王昭君おうしょうくん

前漢(前1世紀)

匈奴きょうどに嫁ぎ、漢との和平を支えた後宮こうきゅうの女性

名は嬙しょう、昭君しょうくんは字あざな。前漢の元帝げんていの後宮こうきゅうに入ったが、皇帝の目に留まらないまま数年を過ごした。前33年、北方の遊牧国家ゆうぼくこっか匈奴きょうどの呼韓邪単于こかんやぜんうが漢の婿むことなることを望むと、王昭君おうしょうくんが嫁ぐことになった。後世の『西京雑記せいけいざっき』は、後宮こうきゅうの女性たちは画工の描いた肖像画で選ばれており、賄賂わいろを贈らなかった王昭君おうしょうくんだけが醜みにくく描かれていたため、別れの日に初めてその姿を見た元帝げんていが激はげしく後悔したという逸話を伝える。匈奴きょうどでは寧胡閼氏ねいこえんしと呼ばれ、単于ぜんうの死後は匈奴きょうどの慣習かんしゅうに従って次の単于ぜんうの妻となり、異郷で生涯を終えた。その婚姻こんいんは漢と匈奴きょうどの間に長い平和をもたらしたとされ、内モンゴルのフフホト郊外には王昭君おうしょうくんの墓と伝わる「青冢せいちょう」が残る。

「落雁らくがん」の由来:旅たびの途中で琵琶びわを奏かなでると、空を行く雁がんが羽ばたくのを忘れて落ちた
史実では:『漢書かんじょ』匈奴伝きょうどでんや『後漢書ごかんじょ』南匈奴伝みなみきょうどでんに記録がある実在の人物。
貂蝉3
清代の画集『古今百美図ここんひゃくびず』に描かれた貂蝉ちょうせん / Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

貂蝉ちょうせん

後漢末(2世紀末)

「連環れんかんの計」で董卓とうたくと呂布りょふを仲たがいさせた

『三国志演義さんごくしえんぎ』では、後漢の司徒しと王允おういんに養われた歌妓かぎとして登場する。都で暴政ぼうせいを振るう董卓とうたくを除のぞくため、王允おういんは貂蝉ちょうせんを董卓とうたくの養子ようしで猛将の呂布りょふに嫁がせると約束しながら、董卓とうたくにも差さし出した。貂蝉ちょうせんは二人の間で巧みに振る舞まって嫉妬しっとをあおり、ついに192年、呂布りょふは董卓とうたくを殺害さつがいする。この計略けいりゃくは「連環れんかんの計」と呼ばれ、京劇きょうげきなどでも人気の場面となった。正史せいし『三国志』の呂布伝りょふでんには、呂布りょふが董卓とうたくの侍女じじょと密通みっつうし、発覚を恐れていたという短い記述があるだけで、名前は記されていない。この侍女じじょが貂蝉ちょうせんの物語のもとになったと考えられている。

「閉月へいげつ」の由来:庭にわで月を眺ながめていると、その美しさに月が恥はじらって雲に隠れた
史実では:四人のうち唯一、実在が確かめられない人物。主に元代の雑劇ざつげきや明代の『三国志演義さんごくしえんぎ』で形づくられた。
楊貴妃4
清代の画集『古今百美図ここんひゃくびず』に描かれた楊貴妃ようきひ(楊玉環ようぎょくかん) / Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

楊貴妃ようきひ

唐とう(8世紀)

玄宗げんそうの寵愛ちょうあいを一身に受け、安史の乱の中で散ちった

名は玉環ぎょくかん。はじめは玄宗げんそうの息子寿王じゅおうの妃だったが、玄宗げんそうに見初められていったん女道士じょどうしとなり、745年に貴妃きひに立てられた。歌舞かぶや音楽に通じ、玄宗げんそうの寵愛ちょうあいを一身に集めて、一族いちぞくの楊国忠ようこくちゅうは宰相にまで出世した。好物の茘枝れいし(ライチ)を、はるか南方から早馬で運ばせたという話も知られる。しかし政治の乱みだれは755年の安史の乱を招き、都落みやこおちの途中、馬嵬ばかいで兵士たちが楊国忠ようこくちゅうを殺して楊貴妃ようきひの処刑を求めたため、玄宗げんそうはやむなく死を命じた。二人の愛と別れは白居易はくきょいの長編詩『長恨歌ちょうごんか』に詠うたわれ、日本でも『源氏物語』などに大きな影響を与えた。山口県やまぐちけん長門市ながとしには、楊貴妃ようきひが生き延びて日本に流れ着いたという伝説と、その墓と伝わる五輪塔ごりんとうが残っている。

「羞花しゅうか」の由来:庭にわで花に触れると、その美しさに花が恥はじらって花びらを閉じた
史実では:『旧唐書くとうじょ』『新唐書しんとうじょ』に伝でんが立てられた実在の人物。日本では「世界三大美女」の一人にも数えられる。

貂蝉ちょうせんが活躍する『三国志演義さんごくしえんぎ』を含む「四大名著」や、中国が生んだ「四大発明」も別ページで紹介しています。

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