「中国五千年史」- 新石器時代から現代まで、王朝・人物・出来事を年表と地図で辿る。日本史との対照や、歴史小説・漫画の紹介も
西施・王昭君・貂蝉・楊貴妃の四人は、中国の歴史と物語に登場する女性の中でも特に美しかったとして「中国四大美女」と呼ばれる。四人の美しさは「沈魚落雁、閉月羞花」という言葉で表され、魚が沈み、雁が落ち、月が隠れ、花が恥じらうほどだったという。いずれも美しさだけでなく、国の興亡や外交、権力争いに深く関わった人物として語り継がれてきた。
呉王夫差を骨抜きにした越の美女
越の苧蘿村で生まれ、川で紗(薄い絹布)を洗っていたところを見出されたと伝わる。会稽で呉に大敗した越王勾践は、重臣范蠡の策により西施を呉王夫差に献上した。夫差は西施に溺れて政治を怠るようになり、やがて呉は前473年に越に滅ぼされた。その後の消息は、范蠡とともに五湖へ去ったとも、長江に沈められたともいわれる。胸を病んで眉をひそめる姿まで美しく、それを真似た村の女がかえって人に避けられたという『荘子』の話は、故事成語「顰に倣う」の由来となった。日本でも松尾芭蕉が『奥の細道』で「象潟や雨に西施がねぶの花」と詠んでいる。
匈奴に嫁ぎ、漢との和平を支えた後宮の女性
名は嬙、昭君は字。前漢の元帝の後宮に入ったが、皇帝の目に留まらないまま数年を過ごした。前33年、北方の遊牧国家匈奴の呼韓邪単于が漢の婿となることを望むと、王昭君が嫁ぐことになった。後世の『西京雑記』は、後宮の女性たちは画工の描いた肖像画で選ばれており、賄賂を贈らなかった王昭君だけが醜く描かれていたため、別れの日に初めてその姿を見た元帝が激しく後悔したという逸話を伝える。匈奴では寧胡閼氏と呼ばれ、単于の死後は匈奴の慣習に従って次の単于の妻となり、異郷で生涯を終えた。その婚姻は漢と匈奴の間に長い平和をもたらしたとされ、内モンゴルのフフホト郊外には王昭君の墓と伝わる「青冢」が残る。
「連環の計」で董卓と呂布を仲たがいさせた
『三国志演義』では、後漢の司徒王允に養われた歌妓として登場する。都で暴政を振るう董卓を除くため、王允は貂蝉を董卓の養子で猛将の呂布に嫁がせると約束しながら、董卓にも差し出した。貂蝉は二人の間で巧みに振る舞って嫉妬をあおり、ついに192年、呂布は董卓を殺害する。この計略は「連環の計」と呼ばれ、京劇などでも人気の場面となった。正史『三国志』の呂布伝には、呂布が董卓の侍女と密通し、発覚を恐れていたという短い記述があるだけで、名前は記されていない。この侍女が貂蝉の物語のもとになったと考えられている。
玄宗の寵愛を一身に受け、安史の乱の中で散った
名は玉環。はじめは玄宗の息子寿王の妃だったが、玄宗に見初められていったん女道士となり、745年に貴妃に立てられた。歌舞や音楽に通じ、玄宗の寵愛を一身に集めて、一族の楊国忠は宰相にまで出世した。好物の茘枝(ライチ)を、はるか南方から早馬で運ばせたという話も知られる。しかし政治の乱れは755年の安史の乱を招き、都落ちの途中、馬嵬で兵士たちが楊国忠を殺して楊貴妃の処刑を求めたため、玄宗はやむなく死を命じた。二人の愛と別れは白居易の長編詩『長恨歌』に詠われ、日本でも『源氏物語』などに大きな影響を与えた。山口県長門市には、楊貴妃が生き延びて日本に流れ着いたという伝説と、その墓と伝わる五輪塔が残っている。
貂蝉が活躍する『三国志演義』を含む「四大名著」や、中国が生んだ「四大発明」も別ページで紹介しています。