明
1368 – 1644

明の出来事一覧

貧しい農民から身を起こした朱元璋が、モンゴルを北へ追い払い、漢民族の王朝を再興する。鄭和の大艦隊が七度にわたりインド洋を渡った時代もあれば、宦官が跋扈し国政が腐敗した時代もある——二百七十六年の栄枯盛衰の果てに、明は農民反乱と異民族の侵入によって滅びる。

1368明の建国(朱元璋しゅげんしょう)
王朝

明の初代皇帝洪武帝朱元璋は、貧しい農民の子として生まれ、幼くして両親を失い一時は托鉢僧として放浪した後に紅巾軍に身を投じるという、中国王朝史上でも際立って異色の経歴の持ち主であった。1368年に皇帝に即位すると、丞相の胡惟庸が謀反を企てたとされる「胡惟庸の獄」を機に丞相制度そのものを廃止し、六部(中央官庁)を皇帝に直属させることで空前絶後ともいえる皇帝独裁体制を築き上げた。また里甲制による戸籍管理や、耕地の形状を魚の鱗のように図示した魚鱗図冊の作成など、末端の農村社会にまで及ぶ緻密な統治システムを整備し、中央集権国家の基盤を固めた。一方でその治世後半には、かつての功臣たちを謀反の疑いで大量に粛清する「胡藍の獄」と呼ばれる苛烈な粛清が行われ、数万人ともいわれる人々が命を落としたとされる。

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1402靖難の変せいなんのへん・永楽帝えいらくてい即位
戦争・動乱

洪武帝の死後帝位を継いだ建文帝は、諸王の勢力を削ぐ「削藩」政策を進めたが、これに強く反発した叔父の燕王朱棣が北平(現・北京)で挙兵する。朱棣は「君側の奸を除く」ことを名目とした「靖難の役」と呼ばれる内戦を約3年にわたり戦い抜き、1402年に南京を陥落させた。この際、建文帝は宮殿の火災の中で行方不明となり、焼死したとも僧に扮して脱出し諸国を放浪したとも伝えられ、その後の生死は後世まで謎とされ続けた。甥から武力で帝位を奪ったという弱い正統性を補うためもあってか、即位した永楽帝は鄭和の大遠征、北京への遷都、モンゴルへの親征などきわめて積極的な内外政策を次々と推し進め、明の国威を大きく高めることになる。

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1405鄭和ていわの南海大遠征(開始)
対外関係

雲南出身のムスリムで幼くして宦官として宮廷に入った鄭和は、永楽帝の絶大な信任を得て、南海(インド洋方面)への大艦隊派遣を委ねられることになった。艦隊は全長100メートルを超えたとも伝えられる大型帆船「宝船」を含む数百隻、乗組員2万人以上という当時世界最大級の規模を誇り、1405年からの第一回遠征を皮切りに、以後7回にわたりチャンパ・スマトラ・セイロン・ホルムズ、さらにはアフリカ東岸のマリンディにまで到達する空前の航海を成し遂げた。遠征の目的については、周辺諸国に朝貢を促し明の威信を誇示する狙いのほか、靖難の変で行方不明となった建文帝の消息を探るためであったとする説もあり、諸説が併存している。しかし永楽帝の死後は莫大な財政負担を理由に遠征は打ち切られ、以後の明は民間の海上貿易を厳しく制限する海禁政策へと転じていくことになり、鄭和の遠征がもたらしたはずの海洋進出の機運は長く生かされないまま終わることとなった。

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1421北京遷都
王朝

永楽帝は、かつて自らが燕王として長年統治した本拠地北平を新たな首都と定め、1421年に正式に遷都を断行した。これは単なる立地の変更にとどまらず、北方の脅威であるモンゴル勢力に対し皇帝自らが最前線近くに座して国境防衛にあたるという「天子守辺」の姿勢を内外に示す政治的意味合いも強く持っていた。新首都建設にあたっては延べ100万人ともいわれる人員が動員され、四川・雲南の奥地から運ばれた貴重な金糸楠木や特殊な焼成技術による城磚などが用いられた壮麗な宮殿群、すなわち紫禁城が築かれた。旧都南京は「留都」として一定の官庁組織を残したまま副次的な地位にとどめ置かれ、以後紫禁城は清代末期に至るまで500年近くにわたり中国の政治的中枢であり続けることになる。

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1449土木の変どぼくのへん
戦争・動乱

宦官王振の専横のもとで政治判断を誤った皇帝正統帝(英宗)は、北方のオイラト部族長エセンとの対決に際し、周囲の反対を押し切って自ら大軍を率いて親征に赴いた。しかし準備不足のまま行軍した明軍は、河北省の土木堡(現・懐来県)でエセン軍の急襲を受けて壊滅的な敗北を喫し、皇帝自身も捕虜となるという未曾有の事態を招く。この国家的危機に際し、兵部尚書于謙は動揺する朝廷をまとめて英宗の弟を新帝(景泰帝)に立て、エセンの人質としての英宗の価値を無効化した上で北京籠城戦(北京保衛戦)を指揮し、オイラト軍の攻撃を退けることに成功した。皇帝不在という空前の危機を乗り切った于謙の功績は高く評価される一方、後に釈放され帰国した英宗は復位を果たすと、自らを見限った于謙を処刑するという数奇な結末を迎えることになった。

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1592文禄・慶長の役への援軍
対外関係

日本を統一した豊臣秀吉は明征服(唐入り)を掲げて朝鮮への侵攻を開始し(文禄の役)、これを受けた朝鮮王朝は宗主国である明に救援を要請した。冊封関係にあった明はこれに応じて大軍を派遣し、平壌の奪還戦などをめぐり日明両軍の間で一進一退の攻防が続いた。一時は講和交渉が試みられたものの条件が折り合わず決裂し、1597年には日本軍が再び朝鮮へ侵攻する慶長の役へと発展、この間、李舜臣率いる朝鮮水軍が亀甲船を用いて日本の補給線を脅かす活躍を見せたことでも知られる。1598年の秀吉の死をきっかけに日本軍は撤退し戦争は終結したが、およそ7年に及んだこの遠征は明の国庫を著しく圧迫し、この隙に東北方面で女真族(後の後金・清)が勢力を蓄える余地を与える結果となり、明衰退の一因になったとも評価されている。

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1644李自成りじせいの乱・明の滅亡
戦争・動乱

明末には度重なる天災による大飢饉、重税、東林党をめぐる激しい党争などが重なり、統治機構は著しく疲弊していた。こうした中、陝西で挙兵した李自成は「闖王」と称し、「李自成を迎えれば年貢を納めずに済む」といった民衆受けするスローガンを掲げて急速に勢力を拡大していく。1644年、李自成の軍はついに北京を陥落させ、追い詰められた最後の皇帝崇禎帝は紫禁城裏手の景山(煤山)で自ら首を吊り、270年余り続いた明は事実上滅亡した。だが山海関で清軍と対峙していた明の武将呉三桂は、李自成打倒のためにあえて清軍を関内へ招き入れるという苦渋の決断を下し、これが結果的に満洲族の清が中国全土を制圧する道を開くという、歴史の皮肉ともいえる展開を招くことになった。

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