唐
618 – 907

唐の出来事一覧

隋の失敗を教訓に、李淵・李世民の親子が新たな帝国を築く。長安は世界最大級の国際都市となり、シルクロードを通じて文物が行き交う——中国史上もっとも国際色豊かな黄金時代である。だが安史の乱を境に、栄華の帝国は緩やかな衰退への道をたどり始める。

618唐の建国(李淵りえん)
王朝

太原の留守(地方長官)を務めていた李淵は、隋末の混乱に乗じて617年に挙兵し、間もなく長安を制圧すると、当初は煬帝の孫を皇帝に擁立して隋の存続を装った。しかし翌618年、江都で煬帝が殺害されたとの報に接すると自ら皇帝に即位し、国号を唐、都を長安と定めた。もっとも建国当初は王世充や竇建徳など各地に割拠する群雄が健在であり、これらを平定して実質的な中国統一を達成するまでにはなお数年を要した。この統一戦争では次男の李世民が各地を転戦して大きな軍功を挙げ、後の帝位継承争いの伏線ともなっていく。

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626玄武門げんぶもんの変・太宗即位
戦争・動乱

皇太子李建成とその弟李元吉は、数々の軍功を挙げて声望を高める次男李世民を危険視し、暗殺を謀ったとされる。これを察知した李世民は626年、長安城の北門玄武門に伏兵を配して兄李建成と弟李元吉を殺害し、父高祖に迫って自らを皇太子とさせ、まもなく譲位を受けて太宗として即位した。骨肉の争いを経て即位した太宗であったが、諫言をいとわない名臣魏徴らを重用し、質素倹約と民力の休養に努めた結果、後世「貞観の治」と呼ばれる安定した善政の時代を築き上げることになる。この治世の様子は後に『貞観政要』としてまとめられ、以後の東アジア各地の為政者にとって理想的な統治の手本として長く読み継がれた。

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630東突厥とうとっけつの平定
対外関係

唐建国当初、北方の東突厥は強大な軍事力を誇り、即位直後の太宗も一時は都長安近郊まで迫られ、屈辱的な和睦(渭水の盟)を結ばざるを得なかった。太宗はこの屈辱を糧に国力の充実を図り、630年には名将李靖に命じて陰山山脈方面から奇襲をかけさせ、東突厥の頡利可汗を捕らえてこれを滅ぼすことに成功した。この勝利により唐の国際的な威信は飛躍的に高まり、周辺の諸民族の君長たちは太宗を「天可汗(テングリ・カガン)」として共に推戴するようになったと伝えられる。以後、唐は東アジアにおける国際秩序の中心として、周辺諸国からの朝貢や留学生の受け入れなど活発な対外交流を展開していくことになる。

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690武則天ぶそくてん、周を建て皇帝に
王朝

太宗の後宮に入り、後に高宗の皇后となった武則天は、高宗の死後に自ら政務を執る「臨朝称制」を経て、実子である中宗・睿宗を相次いで廃立し、690年にはついに国号を周と改めて自ら皇帝に即位した。中国史上唯一の女帝として君臨した治世では、密告や酷吏を用いた恐怖政治で反対派を厳しく弾圧する一方、科挙による人材登用を大きく拡大して身分によらない官僚の登用を進めるなど、後の開元の治につながる人材基盤を整えたとも評価される。晩年の705年には宰相張柬之らによる政変(神龍革命)で退位に追い込まれ、国号は唐に復されて息子の中宗が復位した。その治世に対する評価は現在も賛否が分かれるが、女性が皇帝の座に就いたという事実自体が中国史上極めて異例な出来事として記憶されている。

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630s玄奘げんじょうのインド旅と仏教文化の隆盛
文化

玄奘は当時国外への出国が禁じられていたにもかかわらず、より正確な仏典を求めて密かに国境を越え、西域や中央アジアの荒野を越えてインドに至る過酷な旅を敢行した。インドでは仏教教学の一大中心地であったナーランダ僧院で長期にわたり学び、帰国後の645年には持ち帰った膨大な経典の漢訳事業を国家的な規模で主導し、鳩摩羅什と並び称される中国仏教史上屈指の訳経僧となった。その旅の記録である『大唐西域記』は、当時の中央アジア・インドの地理や風俗を伝える第一級の史料としても高く評価されている。この命がけの旅の逸話は後世に大きく脚色され、明代の小説『西遊記』において三蔵法師が孫悟空らを伴いインドを目指す物語のモデルとなったことでも広く知られている。

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755安史の乱
戦争・動乱

晩年の玄宗は寵妃楊貴妃への寵愛にかまけて政務を顧みなくなり、その一族楊国忠と、平盧・范陽・河東の三節度使を兼ねる強大な軍事力を握った安禄山との対立が深まっていった。755年、安禄山は范陽で挙兵し、翌756年には洛陽・長安を相次いで陥落させ、玄宗は蜀(四川)へ逃れる途上、馬嵬駅で兵士たちの要求により楊貴妃を自害させざるを得なかったと伝えられる。皇太子李亨は霊武で即位して粛宗となり、ウイグル(回紇)の援軍を得て長安・洛陽を奪還したが、反乱そのものは安禄山の死後も部将史思明らに引き継がれ、763年まで8年近くにわたって続いた。この大乱により華北の人口は激減し、律令制の根幹であった均田制・租庸調制は崩壊、乱後は各地に自立性の強い藩鎮(節度使)が割拠する体制が定着し、唐は「安史の乱」を境に繁栄の絶頂から緩やかな衰退へと向かうことになる。

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907朱全忠しゅぜんちゅう、唐を簒奪
戦争・動乱

黄巣の乱で一時は反乱軍に加わっていた朱全忠(朱温)は、後に唐に帰順して官軍として乱の鎮圧に貢献し、その過程で最も有力な節度使としての地位を築き上げた。903年には長安から洛陽への強制遷都を主導して宦官勢力を一掃し、904年には皇帝昭宗を暗殺して幼い哀帝を擁立するなど、唐朝廷を完全に傀儡化していった。そして907年、朱全忠はついに哀帝から禅譲という形式を取って帝位を奪い、国号を後梁と定めて自ら皇帝に即位した。これにより618年の建国から289年続いた唐王朝は名実ともに滅亡し、以後半世紀にわたり中国は五代十国と呼ばれる小国乱立の分裂時代へと突入することになる。

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