CHINESE HISTORY TIMELINE
中国史年表

「中国五千年史」- 新石器時代から現代まで、王朝・人物・出来事を年表と地図で辿たどる。日本史との対照や、歴史小説・漫画の紹介も

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科挙とは?

科挙とは、隋ずいの時代に始まり、清の1905年に廃止されるまで約1300年続いた、中国の官僚を選ぶための試験制度のこと。「科目による選挙せんきょ(人材の選び出し)」を意味し、家柄ではなく試験の成績で役人を選ぶという、当時の世界では珍しい仕組みだった。合格すれば貧まずしい家の出身でも高い地位と富を手にできたため、多くの男性が人生をかけて勉強に打ちこんだ。

結論:明・清の科挙の流れ
童試どうし(秀才しゅうさい)→ 郷試きょうし(挙人きょじん)→ 会試かいし(貢士こうし)→ 殿試でんし(進士しんし)
殿試でんしの1位が「状元じょうげん」。最後まで合格するのは、受験者全体のごく一部だった。

科挙の歴史(隋から清まで)

隋ずい
文帝ぶんていが家柄で官僚を選ぶ九品中正きゅうひんちゅうせいをやめ、試験による登用を始める。煬帝ようだいの時代に進士科しんしかが置かれ、科挙の始まりとされる。 年表で読む →
唐とう
進士科しんしかが花形となるが、合格者は年に数十人ほど。合格しても家柄や推薦すいせんがものをいい、貴族の力はまだ強かった。武則天ぶそくてんは武官を選ぶ武挙ぶきょを始めた。 年表で読む →
宋そう
太祖趙匡胤ちょうきょういんが皇帝みずから試験する殿試でんしを始め、その後も受験者の名前を隠す糊名こめいや答案の書き写し(謄録とうろく)が取り入れられて公平こうへいさが高まった。合格者が政治を担う「士大夫したいふ」の時代になる。 年表で読む →
元げん
モンゴル人の王朝のもとで長く中止され、1315年に再開されたが、合格者の数は少なかった。 年表で読む →
明みん・清しん
童試どうし→郷試きょうし→会試かいし→殿試でんしの流れが固まり、朱子学しゅしがくにもとづく八股文はっこぶんという決まった形式の論文が課された。受験者は数百万人規模にふくらんだ。 年表で読む →
1905年
近代化を急ぐ清朝が科挙を廃止。約1300年の歴史に幕を下ろした。 年表で読む →

明・清の科挙の段階と合格者の呼び名

科挙のしくみがもっとも整った明・清では、受験者は次の4段階を順に勝ち抜く必要があった。それぞれの合格者には呼び名があり、それ自体が社会的な身分になった。

試験場所・時期合格者ポイント
1童試どうし県・府・省の学政がくせい
3年に2回
生員せいいん(秀才しゅうさい)ここに受かると郷試きょうしの受験資格と、労役ろうえきの免除めんじょなどの特権とっけんを得る
2郷試きょうし各省の都(貢院こういん)
3年に1回・秋
挙人きょじん最大の難関なんかん。挙人きょじんになるだけで地方の名士として役人に任官にんかんできる道も開けた
3会試かいし都(北京)
郷試きょうしの翌年・春
貢士こうし全国の挙人きょじんが集まる試験
4殿試でんし宮中
会試かいしの直後
進士しんし皇帝が出題する形の試験で、落第はなく順位だけを決める

出題の中心は『論語ろんご』『孟子もうし』などの四書ししょと五経ごきょうで、答えは南宋なんそうの朱熹しゅきの注釈に沿って書くことが求められた。明代からは八股文はっこぶんと呼ばれる、対句ついくを重ねる厳しい形式の論文が課され、内容よりも形式に合っているかが重視されたため、のちに「中身のない文章」の代名詞にもなった。

カンニングと不正、そして厳しい処罰

合格すれば一族の運命が変わる試験だけに、不正もあとを絶たたなかった。米粒こめつぶほどの文字で四書五経ししょごきょうを写した豆本まめほんや、肌着はだぎの裏一面に模範解答もはんかいとうをびっしり書きこんだ「カンニング下着」が今も残っている。受験者は試験場の入口で服や持ち物を細かく調べられ、饅頭まんじゅうまで割って中を確かめられたという。答案は名前を糊のりで封ふうじたうえ、筆跡ひっせきでだれの答案かわからないよう別の人が書き写してから採点された。

不正が発覚したときの処罰は重く、清の1858年には北京の郷試きょうしで合格者の入れかえが明るみに出て、翌年、試験の責任者だった大学士だいがくし柏葰はくしゅんが死刑しけいになった。宰相級の高官こうかんでさえ処刑されるほど、科挙の公正こうせいさは国の威信いしんに関わる問題だった。

科挙に合格した人・落ち続けた人

合格して歴史を動かした人

北宋ほくそうの改革者王安石おうあんせき、その政敵せいてきで『資治通鑑しじつがん』を著した司馬光しばこう、詩人の蘇軾そしょくは、いずれも進士しんし出身。朱子学しゅしがくをおこした朱熹しゅきは19歳で進士しんしに合格した。南宋なんそう末に元と戦い続けた文天祥ぶんてんしょうは状元じょうげんだった。 王安石おうあんせきの人物ページ → 司馬光しばこうの人物ページ → 朱熹しゅきの人物ページ →

落ち続けて歴史を動かした人

清末の洪秀全こうしゅうぜんは、科挙の最初の段階(秀才しゅうさいになる試験)に4度落ち、その挫折ざせつの中でキリスト教の影響を受けた幻を見たとして宗教結社を作った。これがのちに清を揺るがす太平天国の乱になる。また唐末に大反乱を起こした黄巣こうそうも、科挙に落ちた塩の密売人みつばいにんだったといわれる。 太平天国の乱を年表で読む →

合格して喜よろこびのあまり…

清代の小説『儒林外史じゅりんがいし』には、50歳を過ぎてようやく郷試きょうしに合格した范進はんしんが、知らせを聞いた瞬間に喜よろこびのあまり正気を失ってしまう話がある。物語ものがたりではあるが、科挙に人生を捧ささげた人々の姿を皮肉ひにくたっぷりに描いた場面として、中国の教科書にも載のっている。

科挙についてよくある疑問

Q. 状元・榜眼・探花とは?

殿試でんしの成績上位3人のこと。1位を状元じょうげん、2位を榜眼ぼうがん、3位を探花たんかと呼び、この3人は「一甲」として特別に進士及第しんしきゅうだいの称号を受けた。状元じょうげんは3年に一度しか出ない全国の首席で、故郷こきょうには記念きねんの門が建てられるほどの名誉だった。「状元じょうげん」という言葉は、いまも中国で大学入試の各省トップを指す言葉として使われている。

Q. 科挙の倍率はどれくらい?

時代や地域で大きく違うが、明・清でもっとも狭せまき門だったのは郷試きょうしで、受験者の多い江南こうなん(南京)では2万人近くが受けて合格者は100人あまりという年もあった。最終的な進士しんしは清代で1回あたりおよそ200〜300人ほど。何十年も受け続ける人は珍しくなく、白髪の老人が若者と並ならんで受験する光景も見られた。

Q. 試験は何日間?どこで受けた?

郷試きょうしと会試かいしは3回の試験(3場)からなり、1回ごとに2泊3日、合計9日ほどかかった。受験者は貢院こういんという試験場に並ぶ「号舎ごうしゃ」と呼ばれる個室に入り、そこで食事も睡眠すいみんもとった。号舎ごうしゃは畳たたみ1枚ほどの狭せまさで、板を渡して机と椅子いすにした。南京の江南貢院こうなんこういんには2万を超える号舎ごうしゃが並び、その一部は今も博物館はくぶつかんとして残っている。

Q. 科挙は誰でも受けられた?

建前では家柄に関係なく、男性なら受験できた。ただし女性は受けられず、役者や奴婢ぬひなど一部の身分の人や、親の喪中もちゅうの人も除のぞかれた。また何年も勉強に専念せんねんするには経済的けいざいてきな余裕よゆうが必要で、実際の合格者は地主や商人など裕福ゆうふくな家の出身者が多かった。

Q. 日本に科挙はなかったの?

日本は遣隋使けんずいし・遣唐使けんとうしを通じて律令制を取り入れ、役人の試験の制度も作ったが、実際には家柄による任官にんかんが中心で、中国のような科挙は根づかなかった。同じように宦官かんがんの制度も日本には入っていない。一方、朝鮮半島(高麗こうらい・朝鮮王朝ちょうせんおうちょう)やベトナムでは科挙が本格的に行われた。唐とうに渡った阿倍仲麻呂あべのなかまろは、唐の科挙に合格して役人になったと伝えられている。

科挙で選ばれた官僚と、皇帝の身近で権力けんりょくを争った宦官かんがんの歴史や、後宮の位についても解説しています。

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