南
420 – 589

南北朝の出来事一覧(南北朝時代)

江南に南朝、華北に北朝——南北に分かれた中国は、それぞれ王朝の興亡を繰り返しながら二世紀近くを過ごす。北魏の孝文帝が推し進めた漢化政策、江南に花開いた貴族文化と仏教美術。分裂の裏側で、次の大統一への土壌が静かに耕されていった。

420劉宋りゅうそうの建国
王朝

武将出身の劉裕が東晋の恭帝から禅譲を受けて即位し、国号を宋(劉宋)と定めたことで、南朝の時代が幕を開けた。劉裕は寒門(家柄の低い層)出身の人材登用を進めて貴族の特権に一定の制約を加えたが、即位からわずか2年で病没し、以後の劉宋の宮廷は皇族同士の骨肉の争いに見舞われることになる。南朝では以後、宋・斉・梁・陳という四つの王朝が約170年の間に次々と交代し、いずれも建康(現・南京)を都として漢族の伝統文化を継承していった。この間、江南では貴族文化と仏教文化が花開き、後の中国文化史における重要な蓄積がなされていくことになる。

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439北魏ほくぎによる華北統一
王朝

鮮卑拓跋部が建てた北魏は、太武帝拓跋燾の治世下で夏・北燕・北涼など華北に残っていた諸政権を次々と平定し、439年についに五胡十六国時代以来続いた華北の分裂状態を終わらせた。これにより中国は江南の宋(劉宋)と華北の北魏が対峙する南北朝時代へと本格的に突入する。北魏は北方の遊牧民族柔然としばしば戦火を交え、この頃の国境防衛の様子は後に「木蘭辞」として語り継がれる、女性が男装して従軍したという物語の時代背景にもなったとされる。太武帝は晩年に仏教を弾圧する法難を起こしたことでも知られ、その反動から次代以降には仏教を篤く保護する政策へと転じていくことになる。

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494北魏ほくぎの漢化政策
文化

北魏の孝文帝は平城から中原の中心地洛陽への遷都を断行し、あわせて鮮卑族の服装・言語を中国風に改めさせ、皇族の姓を拓跋から元に改姓するなど急速な漢化政策を推し進めた。漢人官僚の登用や鮮卑・漢人間の通婚も奨励され、支配層の統治理念は次第に中国的な色彩を強めていくことになる。一方でこうした急激な変化は北方の辺境を守る保守的な鮮卑軍人層の反発を招き、後の六鎮の乱という大規模反乱の遠因になったとも指摘される。洛陽遷都に伴い、都近郊では新たな仏教石窟の造営も始まり、北魏仏教美術の新たな中心地が築かれていった。

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502梁の建国(蕭衍しょうえん)
王朝

南斉の一族であった蕭衍は南斉末の内紛に乗じて挙兵し、502年に禅譲を受けて梁を建国、後に武帝と称された。武帝は48年という南朝屈指の長期政権を築き、文学や仏教を篤く保護したことで知られ、皇太子蕭統が編纂を主導した詩文選集『文選』はこの時代の文化的達成を象徴する。仏教への傾倒は特に著しく、自ら出家して寺に入る「捨身」を四度にわたり行い、そのたびに臣下が莫大な資金を払って寺から迎え戻したと伝えられ、「皇帝菩薩」とも呼ばれた。しかし晩年の548年には投降してきた武将侯景の反乱を招き、都建康を包囲されて幽閉のうちに餓死したと伝わり、栄華を極めた治世は悲劇的な結末を迎えることになる。

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534北魏ほくぎの分裂
戦争・動乱

六鎮の乱をはじめとする度重なる反乱で弱体化した北魏では、実力者の高歓と宇文泰がそれぞれ別の皇族を擁立して対立し、534年に東魏(鄴を都、高歓が実権)と西魏(長安を都、宇文泰が実権)へと分裂した。両政権はまもなくそれぞれ高氏の北斉、宇文氏の北周へと王朝交代し、以後も華北では激しい抗争が続くことになる。特に西魏・北周を支えた宇文泰は、関中・隴西の軍事貴族層(関隴集団)を組織化しており、この集団からは後の隋の楊氏や唐の李氏といった王朝創始者が輩出されることになる。北魏の分裂は、一見混乱の一場面に見えながらも、次の統一王朝の担い手を準備する重要な布石であったと評価される。

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589隋による南北統一
王朝

南朝最後の王朝陳は、皇帝陳叔宝(陳後主)が政務を顧みず享楽的な宮廷生活にふけったことで国力が著しく衰えており、自ら作ったとされる艶麗な楽曲「玉樹後庭花」は、後世亡国の音楽の代名詞として語られるようになる。589年、隋の大軍が長江を渡って建康に迫ると陳はほとんど抵抗できないまま降伏し、西晋滅亡以来約270年にわたり分裂していた中国は隋のもとに再統一された。これにより南朝・北朝と呼ばれた並立時代は終わりを告げ、江南の経済力・文化的蓄積と華北の軍事力・統治機構が一つの王朝のもとに統合されることとなった。南北朝期に培われた貴族文化や仏教文化の多くは、その後の隋唐帝国の文化的基盤として受け継がれていく。

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