前漢の張騫が切り開き、後漢の班超が守り、唐の玄奘が旅したシルクロード。長安を出て河西回廊を抜け、タクラマカン砂漠の縁に点在するオアシス都市を経て中央アジアへと至るこの道は、絹だけでなく紙・仏教・文物が行き交う東西交流の大動脈でした。
シルクロード(絹の道)とは、古代から中世にかけて中国と地中海世界を結んだ東西交易路の総称である。中国から西方へ大量に運ばれた絹に由来する呼び名で、19世紀のドイツ人地理学者フェルディナント・フォン・リヒトホーフェンが「ザイデンシュトラーセン」(絹の道)と名付けたのが始まりとされる。ある一本の決まった道があったわけではなく、オアシスや都市を結ぶ複数のルートの総称である点も特徴である。
起点として知られる長安(現・西安)を出発し、河西回廊を抜けて敦煌に至ると、道はタクラマカン砂漠の北縁を行く天山南路(北道)と、南縁を行く崑崙山北路(南道)に分かれ、いずれもパミール高原を越えて中央アジア、さらに西アジアや地中海世界へと続いた。開通のきっかけは、前漢の武帝の命を受けた張騫が同盟相手を求めて西域に派遣されたことにあるとされ、後漢の班超による西域経営を経て交易路として確立し、唐代に最盛期を迎えた。
シルクロードを通じて西方へは絹だけでなく紙や火薬の製法が伝わり、東方へは仏教やガラス製品、香辛料、汗血馬などがもたらされた。単なる交易路にとどまらず、宗教・思想・文化が行き交う東西交流の大動脈として機能し、沿線には敦煌をはじめとする数多くのオアシス都市が繁栄した。2014年には、中国・カザフスタン・キルギスにまたがるシルクロードの関連遺跡群がユネスコの世界遺産に登録されている。ここでは、そうしたシルクロード沿いに栄えたオアシス都市を、地図や逸話とあわせて紹介する。
実際の海岸線をもとにした、ローマまでの位置関係図です。シルクロードは中国国内だけの道ではなく、中央アジアの オアシス都市やペルシア(中東)を経て、地中海世界のローマにまで達していました。
敦煌からカシュガルまでの中国国内区間は、下の詳細地図で紹介しています。
実際の海岸線をもとにした中国の位置関係図です。敦煌で天山南路(北道)と崑崙山北路(南道)に分かれ、 いずれもパミール高原を越えて中央アジアへと続きます。朱色の番号は下の一覧のオアシス都市、 砂色の部分はタクラマカン砂漠、金色の破線は漢代以降「西域」と呼ばれた領域のおおよその目安です。
長安から河西回廊へ向かう際に必ず黄河を渡らねばならない交通の要衝で、前漢代には「金城」の名で郡が置かれ、以後シルクロードを守る軍事拠点として発展した。現在は甘粛省の省都として栄え、市街を貫く黄河には、1907年にドイツの技術協力で架けられ黄河に現存する最古の橋として知られる中山橋が今も残る。
長安から河西回廊へ入る最初の要衝で、漢代には匈奴から奪った要地として軍事・交易の拠点となった。市街には五代十国期に建てられた鳩摩羅什寺塔などの古刹が残り、今も交通の要所として賑わう。郊外の雷台漢墓から出土した銅製の「馬踏飛燕」(飛燕を踏む天馬)は、甘粛省のシンボルとしても知られる。
祁連山の雪解け水が育む緑豊かなオアシス都市で、マルコ・ポーロも訪れ長期滞在したと『東方見聞録』に記したと伝えられる。郊外に広がる張掖丹霞地質公園は、幾重にも色の異なる岩肌が波打つ絶景として近年の人気観光地となっている。
明代に築かれた万里の長城の西の果てに立つ関所で、その先はもう漢民族の版図の外という意味を込めて「天下第一雄関」と呼ばれた。東端の山海関と対をなす存在で、当時の兵士や商隊が抱いた望郷・不安の思いが多くの詩に詠まれている。
張騫の西域派遣を機に漢が経営を始めた最重要のオアシスで、東西の隊商が必ず経由した交易の要衝。断崖に穿たれた仏教石窟寺院莫高窟(千仏洞)は、4世紀から14世紀にかけて千年にわたり彫り続けられた仏教美術の宝庫で、現在も中国有数の観光地として知られる。
漢代にはシルクロード南道の中継地として栄えたが、水源であったロプノール湖の移動・干上がりに伴い唐代以降に放棄され、タクラマカン砂漠の中に埋もれた「幻のオアシス都市」となった。20世紀初頭の探検家スヴェン・ヘディンらによる発見以来、今もその興亡の謎が人々を惹きつけている。現地は立入が厳しく制限されており、渦を巻くような特異な地形は「砂漠の大耳」とも呼ばれ、人工衛星写真で世界的に知られるようになった。
海抜マイナス154mの盆地に位置し夏は灼熱となる一方、地下水路「坎児井」の灌漑によって豊かなブドウ畑が広がるオアシス。玄奘がインドへ向かう途上に立ち寄り、高昌国王の厚遇を受けたと伝えられる地でもあり、廃墟となった交河故城・高昌故城が今も残る。
天山南路の要衝に栄えた仏教王国焉耆(カラシャール)は、西域三十六国の一つに数えられ、玄奘も『大唐西域記』にその繁栄ぶりを記している。近郊には西域最大の内陸淡水湖博斯騰湖(ボステン湖)が広がり、市街を流れる開都河のほとりには今も緑豊かなオアシスの街並みが残る。
漢訳仏典で名高い訳経僧鳩摩羅什を輩出した西域屈指の仏教国。郊外のキジル千仏洞は莫高窟よりも古い時期から開削が始まったとされる石窟群で、中央アジア色濃い壁画様式は今も研究者の関心を集めている。
パミール高原を越えれば中央アジアという、シルクロードが西方世界と接する最後の大オアシス。後漢の班超はこの一帯を含む西域諸国を服属させて交易路の安定を回復させた。中国最大級のモスク艾提尕爾清真寺が旧市街の中心にそびえ、周辺の日曜大バザールは今も活気ある市場として知られる。
崑崙山脈の雪解け水が支えるシルクロード南道最大のオアシスで、古来「玉(ぎょく)」の産地として中国の宮廷に珍重されてきた。市内を流れる玉龍喀什河の川底から今も玉を探す人々の姿が見られ、養蚕や絨毯織りの伝統工芸でも知られる。
交易路の開拓者たちが残した逸話から、20世紀の考古学的発見まで。シルクロードにまつわる、読んで面白いエピソードを集めました。
大月氏との同盟を求めて西域へ向かった張騫は、道半ばで匈奴に捕らえられ、匈奴の女性を娶り子をもうけながらも十年以上にわたり抑留され続けた。それでも脱出の機会をうかがい続け、ついに西へ逃れて使命を果たそうとしたその執念が、後にシルクロードと呼ばれる交易路を開く端緒となった。
関連する出来事を年表で読む →後漢の班超は、西域の小国で従者たちにこう説いたと伝えられる。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」。少人数の手勢で敵陣に夜襲をかけるという大胆な決断を促したこの言葉は、故事成語として今も語り継がれている。班超はこうした果断な行動を重ねて西域諸国を次々に服属させ、一時中断していた交易路の安定を回復させた。
関連する出来事を年表で読む →班超の部下甘英は、遠くローマ帝国(大秦)を目指して西へ派遣された最初の中国人使節として知られる。ペルシア湾岸まで到達したとも伝えられるが、渡航の危険を誇張して聞かされたためか、海を渡ることなく引き返したという。もし甘英が海を渡っていたら、東西交流の歴史はまた違った形になっていたかもしれない。
関連する出来事を年表で読む →当時、唐から国外へ出ることは禁じられていたが、玄奘はより正確な仏典を求めて密かに国境を越え、砂漠と山岳を越える過酷な旅の末にインドへとたどり着いた。帰国後にまとめた旅行記『大唐西域記』は、後世の小説『西遊記』で三蔵法師が孫悟空らを伴い天竺を目指す物語のモデルとなったことでも知られている。
関連する出来事を年表で読む →ヴェネツィアの商人マルコ・ポーロは、陸路シルクロードを経て元の宮廷に至り、クビライに仕えたと伝えられる。帰国後、ジェノヴァとの海戦で捕虜となった獄中において、同房の作家に東方での見聞を口述筆記させたのが『東方見聞録』の成立事情とされる。あまりに壮大な内容ゆえに誇張と疑われ、マルコ自身「百万法螺吹きのマルコ(イル・ミリオーネ)」とあだ名されたという逸話も残る。
関連する出来事を年表で読む →後漢の宦官蔡倫が改良した製紙法は、宮廷から民間へ広まった後、シルクロードを通じて西方へも伝播していった。8世紀にはイスラム世界に伝わり、さらに12世紀頃にはヨーロッパにまで達したとされ、紙の普及は世界の文明史そのものを大きく変えることになった。
関連する出来事を年表で読む →1980年、楼蘭古城近郊のタクラマカン砂漠で、乾燥した気候により奇跡的に保存された約3800年前の女性のミイラが発見され、「楼蘭の美女」と呼ばれ話題となった。彫りの深い顔立ちや衣服の特徴から、当時すでに西方の人々がこの地に暮らしていた可能性が指摘されており、シルクロードが遥か古代から東西の人々が行き交う道であったことを物語っている。
1900年、莫高窟を管理していた道士王円籙は、壁の奥に隠された小さな洞窟「蔵経洞」を偶然発見した。中には4世紀から11世紀にわたる数万点もの経典・古文書が眠っていたが、その存在を知ったイギリスのスタインやフランスのペリオら西洋の探検家たちが次々と訪れ、貴重な文書の多くを買い取って持ち帰った。散逸した敦煌文書の行方と返還は、今なお文化財保護をめぐる議論の的となっている。
シルクロードの起点となった歴代の都や、道中の関所・城壁も別ページで紹介しています。