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シルクロードとは?

前漢の張騫ちょうけんが切り開き、後漢の班超はんちょうが守り、唐の玄奘げんじょうが旅したシルクロード。長安を出て河西回廊を抜け、タクラマカン砂漠の縁に点在するオアシス都市を経て中央アジアへと至るこの道は、絹だけでなく紙・仏教・文物が行き交う東西交流の大動脈でした。

鳴沙山を行くラクダの隊列敦煌・鳴沙山めいさざんを行くラクダの隊列。シルクロードを代表する観光地の一つ
写真: N509FZ / Wikimedia Commons, CC BY-SA 4.0

シルクロードの歴史とルート

シルクロード(絹の道)とは、古代から中世にかけて中国と地中海世界を結んだ東西交易路の総称である。中国から西方へ大量に運ばれた絹きぬに由来する呼び名で、19世紀のドイツ人地理学者フェルディナント・フォン・リヒトホーフェンふぇるでぃなんと・ふぉん・りひとほーふぇんが「ザイデンシュトラーセンSeidenstraßen」(絹の道)と名付けたのが始まりとされる。ある一本の決まった道があったわけではなく、オアシスや都市を結ぶ複数のルートの総称である点も特徴である。

起点として知られる長安ちょうあん(現・西安)を出発し、河西回廊を抜けて敦煌とんこうに至ると、道はタクラマカン砂漠の北縁を行く天山南路(北道)と、南縁を行く崑崙山北路(南道)に分かれ、いずれもパミール高原パミールこうげんを越えて中央アジア、さらに西アジアや地中海世界へと続いた。開通のきっかけは、前漢の武帝ぶていの命を受けた張騫ちょうけんが同盟相手を求めて西域に派遣されたことにあるとされ、後漢の班超はんちょうによる西域経営を経て交易路として確立し、唐代に最盛期を迎えた。

シルクロードを通じて西方へは絹だけでなく紙や火薬の製法が伝わり、東方へは仏教やガラス製品、香辛料、汗血馬かんけつばなどがもたらされた。単なる交易路にとどまらず、宗教・思想・文化が行き交う東西交流の大動脈として機能し、沿線には敦煌をはじめとする数多くのオアシス都市が繁栄した。2014年には、中国・カザフスタン・キルギスにまたがるシルクロードの関連遺跡群がユネスコの世界遺産に登録されている。ここでは、そうしたシルクロード沿いに栄えたオアシス都市を、地図や逸話とあわせて紹介する。

実際の海岸線をもとにした、ローマまでの位置関係図です。シルクロードは中国国内だけの道ではなく、中央アジアの オアシス都市やペルシア(中東)を経て、地中海世界のローマにまで達していました。

地中海黒海カスピ海ペルシア湾紅海長安(起点)敦煌カシュガルサマルカンドメルヴバグダッドアンティオキアコンスタンティノープルローマ

敦煌からカシュガルまでの中国国内区間は、下の詳細地図で紹介しています。

実際の海岸線をもとにした中国の位置関係図です。敦煌で天山南路(北道)と崑崙山北路(南道)に分かれ、 いずれもパミール高原を越えて中央アジアへと続きます。朱色の番号は下の一覧のオアシス都市、 砂色の部分はタクラマカン砂漠、金色の破線は漢代以降「西域」と呼ばれた領域のおおよその目安です。

西域タクラマカン砂漠内モンゴル自治区チベット台湾海南島長安(起点)1234567891011
蘭州(金城)1黄河に架かる中山橋(1907年築、現存最古の黄河橋)
蘭州らんしゅう(金城きんじょう)
黄河が貫く河西回廊の玄関口
甘粛省蘭州市

長安から河西回廊へ向かう際に必ず黄河を渡らねばならない交通の要衝で、前漢代には「金城きんじょう」の名で郡が置かれ、以後シルクロードを守る軍事拠点として発展した。現在は甘粛省の省都として栄え、市街を貫く黄河には、1907年にドイツの技術協力で架けられ黄河に現存する最古の橋として知られる中山橋ちゅうざんきょうが今も残る。

写真: Ken Marshall / Wikimedia Commons, CC BY 2.0
黄河のほとりに立つ「黄河母親」像
黄河のほとりに立つ「黄河母親」像
写真: Brücke-Osteuropa / Wikimedia Commons, CC0
武威(涼州)2武威市街に残る武威文庙(文昌宮牌坊)
武威ぶい(涼州りょうしゅう)
河西回廊の東の入り口
甘粛省武威市

長安から河西回廊へ入る最初の要衝で、漢代には匈奴きょうどから奪った要地として軍事・交易の拠点となった。市街には五代十国期に建てられた鳩摩羅什くまらじゅう寺塔などの古刹が残り、今も交通の要所として賑わう。郊外の雷台漢墓らいだいかんぼから出土した銅製の「馬踏飛燕」(飛燕を踏む天馬)は、甘粛省のシンボルとしても知られる。

写真: Zhangzhugang / Wikimedia Commons, CC BY-SA 4.0
雷台漢墓出土の「馬踏飛燕」(甘粛省博物館蔵)
雷台漢墓出土の「馬踏飛燕」(甘粛省博物館蔵)
写真: Gary Todd / Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
武威の水源となる祁連山
武威の水源となる祁連山
写真: Windmemories / Wikimedia Commons, CC BY-SA 4.0
張掖(甘州)3張掖丹霞地質公園の虹色の岩肌
張掖ちょうえき(甘州かんしゅう)
虹色の丹霞地形で知られるオアシス
甘粛省張掖市

祁連山の雪解け水が育む緑豊かなオアシス都市で、マルコ・ポーロも訪れ長期滞在したと『東方見聞録』に記したと伝えられる。郊外に広がる張掖丹霞地質公園は、幾重にも色の異なる岩肌が波打つ絶景として近年の人気観光地となっている。

写真: Marcus Hsu / Wikimedia Commons, CC BY-SA 4.0
嘉峪関4「天下第一雄関」嘉峪関の城楼
嘉峪関かよくかん
万里の長城 最西端の関所
甘粛省嘉峪関市

明代に築かれた万里の長城の西の果てに立つ関所で、その先はもう漢民族の版図の外という意味を込めて「天下第一雄関」と呼ばれた。東端の山海関さんかいかんと対をなす存在で、当時の兵士や商隊が抱いた望郷・不安の思いが多くの詩に詠まれている。

写真: Doron / Wikimedia Commons(CC BY-SA)
敦煌5断崖に建つ莫高窟の象徴「九層楼」(第96窟)
敦煌とんこう
シルクロード随一のオアシス都市
甘粛省敦煌市

張騫ちょうけんの西域派遣を機に漢が経営を始めた最重要のオアシスで、東西の隊商が必ず経由した交易の要衝。断崖に穿たれた仏教石窟寺院莫高窟ばっこうくつ(千仏洞)は、4世紀から14世紀にかけて千年にわたり彫り続けられた仏教美術の宝庫で、現在も中国有数の観光地として知られる。

写真: 慕尼黑啤酒 / Wikimedia Commons, CC BY-SA 3.0
鳴沙山・月牙泉
鳴沙山・月牙泉
写真: David Stanley / Wikimedia Commons, CC BY 2.0
玉門関跡
玉門関跡
写真: 张骐 / Wikimedia Commons, CC BY-SA 3.0
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楼蘭古城6砂の中にそびえる楼蘭仏塔の遺構
楼蘭ろうらん古城
砂漠に消えた幻のオアシス
新疆ウイグル自治区(ロプノール湖畔)

漢代にはシルクロード南道の中継地として栄えたが、水源であったロプノール湖の移動・干上がりに伴い唐代以降に放棄され、タクラマカン砂漠の中に埋もれた「幻のオアシス都市」となった。20世紀初頭の探検家スヴェン・ヘディンらによる発見以来、今もその興亡の謎が人々を惹きつけている。現地は立入が厳しく制限されており、渦を巻くような特異な地形は「砂漠の大耳」とも呼ばれ、人工衛星写真で世界的に知られるようになった。

写真: 許天喜 / Wikimedia Commons, CC BY-SA 3.0
砂に埋もれた建物の残骸
砂に埋もれた建物の残骸
写真: 罗布泊 / Wikimedia Commons, CC BY 3.0
「砂漠の大耳」ロプノール湖跡の衛星写真(NASA撮影)
「砂漠の大耳」ロプノール湖跡の衛星写真(NASA撮影)
写真: NASA / Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
吐魯番7土壁の家々が続く吐魯番旧市街の路地
吐魯番トルファン
灼熱の盆地に広がるブドウの都
新疆ウイグル自治区吐魯番市

海抜マイナス154mの盆地に位置し夏は灼熱となる一方、地下水路「坎児井カレーズ」の灌漑によって豊かなブドウ畑が広がるオアシス。玄奘げんじょうがインドへ向かう途上に立ち寄り、高昌国王の厚遇を受けたと伝えられる地でもあり、廃墟となった交河故城こうがこじょう・高昌故城こうしょうこじょうが今も残る。

写真: Radosław Botev / Wikimedia Commons, CC BY 3.0
交河故城の遺構
交河故城の遺構
写真: Hiroooooo / Wikimedia Commons, CC BY-SA 3.0
火焔山(『西遊記』の舞台)
火焔山(『西遊記』の舞台)
写真: Colegota / Wikimedia Commons, CC BY-SA 2.5
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焉耆(カラシャール)8焉耆の市街を流れる開都河
焉耆えんき(カラシャール)
天山南路に栄えた仏教王国
新疆ウイグル自治区焉耆回族自治県

天山南路の要衝に栄えた仏教王国焉耆えんき(カラシャール)は、西域三十六国の一つに数えられ、玄奘げんじょうも『大唐西域記』にその繁栄ぶりを記している。近郊には西域最大の内陸淡水湖博斯騰湖はくしとうこ(ボステン湖)が広がり、市街を流れる開都河かいとがのほとりには今も緑豊かなオアシスの街並みが残る。

写真: Rolf Müller / Wikimedia Commons, CC BY-SA 3.0
8世紀頃の焉耆の兵士を描いた壁画
8世紀頃の焉耆の兵士を描いた壁画
Albert von Le Coq『Von Land und Leuten in Ostturkistan』(1926年) / Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
亀茲(クチャ)9断崖に開かれたキジル千仏洞
亀茲きじ(クチャ)
西域屈指の仏教王国
新疆ウイグル自治区庫車市

漢訳仏典で名高い訳経僧鳩摩羅什くまらじゅうを輩出した西域屈指の仏教国。郊外のキジル千仏洞きじるせんぶつどうは莫高窟よりも古い時期から開削が始まったとされる石窟群で、中央アジア色濃い壁画様式は今も研究者の関心を集めている。

写真: Rolfmueller / Wikimedia Commons(CC BY-SA)
喀什10公園の池越しに望むカシュガル旧市街の街並み
喀什カシュガル
中央アジアへの玄関口
新疆ウイグル自治区カシュガル市

パミール高原を越えれば中央アジアという、シルクロードが西方世界と接する最後の大オアシス。後漢の班超はんちょうはこの一帯を含む西域諸国を服属させて交易路の安定を回復させた。中国最大級のモスク艾提尕爾清真寺イディカーモスクが旧市街の中心にそびえ、周辺の日曜大バザールは今も活気ある市場として知られる。

写真: Zossolino / Wikimedia Commons, CC BY-SA 4.0
黄色いタイルで彩られたイディカー・モスクの門
黄色いタイルで彩られたイディカー・モスクの門
写真: Dan Lundberg / Wikimedia Commons, CC BY-SA 2.0
カシュガル郊外、パミール高原の慕士塔格峰
カシュガル郊外、パミール高原の慕士塔格峰
写真: Hiroki Ogawa / Wikimedia Commons, CC BY 3.0
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和田11バザールに面したヘイィトカー・モスクと和田の街並み
和田ホータン
崑崙の玉が集まる南のオアシス
新疆ウイグル自治区和田市

崑崙山脈の雪解け水が支えるシルクロード南道最大のオアシスで、古来「玉(ぎょく)」の産地として中国の宮廷に珍重されてきた。市内を流れる玉龍喀什河の川底から今も玉を探す人々の姿が見られ、養蚕や絨毯織りの伝統工芸でも知られる。

写真: Colegota / Wikimedia Commons, CC BY-SA 2.5
玉龍喀什河で玉を探す人々
玉龍喀什河で玉を探す人々
写真: Voidvector / Wikimedia Commons, CC BY-SA 4.0

シルクロードにまつわる逸話

交易路の開拓者たちが残した逸話から、20世紀の考古学的発見まで。シルクロードにまつわる、読んで面白いエピソードを集めました。

張騫、十年抑留の末の脱出行

大月氏だいげっしとの同盟を求めて西域へ向かった張騫ちょうけんは、道半ばで匈奴に捕らえられ、匈奴の女性を娶り子をもうけながらも十年以上にわたり抑留され続けた。それでも脱出の機会をうかがい続け、ついに西へ逃れて使命を果たそうとしたその執念が、後にシルクロードと呼ばれる交易路を開く端緒となった。

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「虎穴に入らずんば虎子を得ず」——班超の西域経営

後漢の班超はんちょうは、西域の小国で従者たちにこう説いたと伝えられる。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」。少人数の手勢で敵陣に夜襲をかけるという大胆な決断を促したこの言葉は、故事成語として今も語り継がれている。班超はこうした果断な行動を重ねて西域諸国を次々に服属させ、一時中断していた交易路の安定を回復させた。

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甘英、幻のローマ行

班超の部下甘英かんえいは、遠くローマ帝国(大秦たいしん)を目指して西へ派遣された最初の中国人使節として知られる。ペルシア湾岸まで到達したとも伝えられるが、渡航の危険を誇張して聞かされたためか、海を渡ることなく引き返したという。もし甘英が海を渡っていたら、東西交流の歴史はまた違った形になっていたかもしれない。

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玄奘、国禁を破っての単身インド行

当時、唐から国外へ出ることは禁じられていたが、玄奘げんじょうはより正確な仏典を求めて密かに国境を越え、砂漠と山岳を越える過酷な旅の末にインドへとたどり着いた。帰国後にまとめた旅行記『大唐西域記』は、後世の小説『西遊記』で三蔵法師が孫悟空らを伴い天竺を目指す物語のモデルとなったことでも知られている。

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獄中で語られた『東方見聞録』——「百万法螺吹きのマルコ」

ヴェネツィアの商人マルコ・ポーロは、陸路シルクロードを経て元の宮廷に至り、クビライに仕えたと伝えられる。帰国後、ジェノヴァとの海戦で捕虜となった獄中において、同房の作家に東方での見聞を口述筆記させたのが『東方見聞録』の成立事情とされる。あまりに壮大な内容ゆえに誇張と疑われ、マルコ自身「百万法螺吹きのマルコ(イル・ミリオーネ)」とあだ名されたという逸話も残る。

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紙、シルクロードを越えて世界へ

後漢の宦官蔡倫さいりんが改良した製紙法は、宮廷から民間へ広まった後、シルクロードを通じて西方へも伝播していった。8世紀にはイスラム世界に伝わり、さらに12世紀頃にはヨーロッパにまで達したとされ、紙の普及は世界の文明史そのものを大きく変えることになった。

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楼蘭の美女——3800年前のミイラが語る東西交流

1980年、楼蘭古城近郊のタクラマカン砂漠で、乾燥した気候により奇跡的に保存された約3800年前の女性のミイラが発見され、「楼蘭の美女」と呼ばれ話題となった。彫りの深い顔立ちや衣服の特徴から、当時すでに西方の人々がこの地に暮らしていた可能性が指摘されており、シルクロードが遥か古代から東西の人々が行き交う道であったことを物語っている。

敦煌・蔵経洞の大発見と流出

1900年、莫高窟を管理していた道士王円籙おうえんろくは、壁の奥に隠された小さな洞窟「蔵経洞」を偶然発見した。中には4世紀から11世紀にわたる数万点もの経典・古文書が眠っていたが、その存在を知ったイギリスのスタインやフランスのペリオら西洋の探検家たちが次々と訪れ、貴重な文書の多くを買い取って持ち帰った。散逸した敦煌文書の行方と返還は、今なお文化財保護をめぐる議論の的となっている。

シルクロードの起点となった歴代の都や、道中の関所・城壁も別ページで紹介しています。