CHINESE HISTORY TIMELINE
中国史年表

「中国五千年史」- 新石器時代から現代まで、王朝・人物・出来事を年表と地図で辿たどる。日本史との対照や、歴史小説・漫画の紹介も

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中国の女帝と権力を握った女性たち

中国の長い歴史の中で、正式に皇帝となった女性は武則天ぶそくてんただ一人しかいない。しかし皇帝の母や妻として、皇帝に代わって国を動かした女性は数多くいた。幼い皇帝の後ろで政治を行った皇太后、皇帝と並んで政治に加わった皇后、自ら軍を率いた太后まで、時代順に紹介する。

結論
中国唯一の女帝:武則天ぶそくてん(唐とう、690〜705年に在位)
中国三大悪女:呂后りょこう・武則天ぶそくてん・西太后せいたいこう

権力を握った中国の女性たち(時代順)

1呂后りょこう(呂雉りょち)三大悪女

前漢(前2世紀)

夫劉邦りゅうほうの死後、15年にわたって漢を動かした

漢を開いた劉邦りゅうほうの皇后。劉邦りゅうほうが死ぬと息子の恵帝けいていを立て、皇太后として実権を握った。劉邦りゅうほうに愛された側室そくしつ戚夫人せきふじんの手足を切り落として「人彘てい(人ブタ)」と呼ばせ、その子を毒殺した話はあまりに有名で、それを見た恵帝けいていは心を病んで政治を投なげ出したという。恵帝けいていの死後も幼い皇帝を立てて自ら政治を行い(臨朝称制りんちょうしょうせい)、呂氏りょしの一族を次々と王にした。前180年に呂后りょこうが死ぬと、重臣たちが呂氏りょし一族を滅ぼし、文帝ぶんていが迎えられた。

司馬遷は『史記』で呂后りょこうの伝でんを皇帝と同じ「本紀」として立て、宮中の残酷ざんこくさとは別に、天下の民は戦乱から解放されて安らかだったと評価している。

2鄧綏とうすい(和熹わき鄧とう皇后)

後漢(2世紀初め)

16年間国を支えた「賢い皇太后」

後漢の和帝わていの皇后。105年に和帝わていが死ぬと、生まれて100日あまりの殤帝しょうてい、続いて13歳の安帝あんていを立て、121年に死ぬまで16年間、皇太后として政治を行った。洪水こうずいや干かんばつ、羌きょう族の反乱が続く苦しい時代に、宮中の贅沢を削って被災者ひさいしゃの救済にあて、学問も重んじた。紙を改良した宦官かんがん蔡倫さいりんを取り立てたのも鄧綏とうすいである。

後漢では幼い皇帝が続いたため、鄧綏とうすいのほかにも多くの皇太后が政治を行い、その一族(外戚がいせき)と宦官かんがんの争いが王朝を弱らせていった。

3賈南風かなんぷう

西晋せいしん(3世紀末)

権力争けんりょくあらそいで八王の乱に火をつけた皇后

西晋せいしんの恵帝けいていの皇后。夫の恵帝けいていは政治ができないほど暗愚だったといわれ、賈南風かなんぷうは291年、皇族の力を借りて皇太后の一族楊氏ようしを滅ぼし、実権を握った。その後も皇族や重臣を次々と陥れ、自分の子ではない皇太子まで殺害したため、300年に皇族の司馬倫しばりんに殺された。皇族どうしの殺し合いはここから本格化し(八王の乱)、西晋せいしんは滅亡へと向かった。

4馮ふう太后(文明ぶんめい太后)

北魏ほくぎ(5世紀後半)

孝文帝こうぶんていを育て、北魏ほくぎの大改革を進めた

北魏ほくぎの文成帝ぶんせいていの皇后。夫の死後、皇太后として政治に関わり、孫の孝文帝こうぶんていが幼くして即位すると、490年に死ぬまで実権を握った。土地を国が民に分け与える均田制きんでんせい(485年)や、村の組織を整える三長制さんちょうせいなど、のちの隋ずい・唐とうにまで受け継がれる制度を作った。孝文帝こうぶんていの漢化政策かんかせいさくは、この祖母の改革の上に築かれている。

5独孤どっこ皇后

隋ずい(6世紀末)

夫と並んで「二聖」と呼ばれた

隋ずいを建てた文帝ぶんてい(楊堅ようけん)の皇后。朝廷に出る文帝ぶんていと同じ輿こしで宮殿へ向かい、政治の相談にもあずかったため、二人は「二聖」と呼ばれた。文帝ぶんていに側室そくしつを持たせないことでも知られ、皇太子楊勇ようゆうが側室そくしつを寵愛ちょうあいすると嫌きらって、質素にふるまっていた次男楊広ようこうを後継に推おした。その楊広ようこうこそが、のちに隋ずいを滅ぼす煬帝ようだいである。

6武則天ぶそくてん(則天武后そくてんぶこう)唯一の女帝

唐とう(7〜8世紀)

中国史上ただ一人、皇帝として即位した女性

太宗たいそうの後宮に才人さいじんとして入り、次の高宗こうそうの皇后となった。病気がちな高宗こうそうに代わって政治を行い、高宗こうそうの死後は息子の皇帝を次々と廃して、690年、国号を「周しゅう」と改めて自ら皇帝に即位した。密告みっこくを奨励しょうれいし、酷吏こくりを使って反対派を粛清した一方で、科挙で家柄にとらわれず人材を登用し、狄仁傑てきじんけつのような名臣も育てた。705年、80歳を過ぎて退位させられ、唐が復活した。

夫高宗こうそうと並んで葬られた乾陵けんりょうには、功績を刻むはずの石碑に一文字も書かれていない「無字碑むじひ」が立つ。評価は後世にゆだねる、という意味だったともいわれる。

7韋い皇后と太平公主たいへいこうしゅ

唐とう(8世紀初め)

第二の女帝をめざした女性たち

武則天ぶそくてんの退位後、息子の中宗ちゅうそうの皇后韋氏いしは、武則天ぶそくてんにならって政治に口を出し、娘の安楽公主あんらくこうしゅは自分を「皇太女」にするよう父に求めた。710年に中宗ちゅうそうが急死すると、韋い皇后が毒殺したとうわさされた。これに対し、武則天ぶそくてんの娘太平公主たいへいこうしゅとおいの李隆基りりゅうきが兵を挙げて韋い皇后を殺した。しかし今度は太平公主たいへいこうしゅが、即位した李隆基りりゅうき(玄宗げんそう)と権力を争い、713年に自害に追いこまれた。

武則天ぶそくてんと韋い皇后の時代は、のちに「武韋ぶいの禍か」と呼ばれた。この混乱を収めた玄宗げんそうのもとで、唐は「開元の治」と呼ばれる全盛期を迎える。

8劉娥りゅうが(章献しょうけん皇后)

北宋ほくそう(11世紀前半)

皇帝の礼服を着たが、女帝にはならなかった

北宋ほくそうの真宗しんそうの皇后。もとは芸人げいにんだったともいわれる低い身分から皇后に上りつめた。1022年に真宗しんそうが死ぬと、幼い仁宗じんそうに代わって11年間政治を行った。武則天ぶそくてんのように即位するよう勧める者もいたが、劉娥りゅうがは「祖先にそむくことはできない」と退けた。ただ晩年には、皇帝だけが着る礼服で祖先の霊廟れいびょうに参拝し、周囲を驚かせている。

仁宗じんそうの生母は劉娥りゅうがではなく侍女じじょの李氏りしで、このことから生まれた「狸猫りびょう、太子に換う」(生まれた皇子を山猫やまねことすり替えた)という物語は、京劇きょうげきやドラマの人気の題材になった。ただしすり替えは創作である。

9蕭しょう太后(蕭綽しょうしゃく)

遼りょう(10〜11世紀)

自ら軍を率いて北宋ほくそうと戦った

北方の契丹きったん人の国遼りょうの皇后で、夫の死後、12歳の息子聖宗せいそうに代わって27年間国を治めた。北宋ほくそうの楊業ようぎょうを捕らえた986年の戦いの時期にも遼りょうを率いており、楊家将ようかしょうの物語では宿敵しゅくてきとして登場する。1004年には自ら聖宗せいそうとともに大軍を率いて北宋ほくそうに攻め込み、北宋ほくそうから毎年銀と絹を受け取る「澶淵せんえんの盟めい」を結ばせた。この和約で両国の間には100年あまりの平和が続いた。

10孝荘文こうそうぶん皇后

清しん(17世紀)

二人の幼い皇帝を支えた清初の「国母」

モンゴルの王族の出身で、清のホンタイジほんたいじの妃。息子の順治帝じゅんちていが6歳で即位し、その順治帝じゅんちていも若くして死ぬと、今度は8歳の孫康熙帝こうきていを立てた。自らは表に出て政治を行うことはなかったが、康熙帝こうきていの教育に力を注ぎ、権力を振るう重臣オボイおぼいを除のぞくときにも孫を支えた。清の最盛期を開いた康熙帝こうきていを育てた祖母として、中国では今も評価が高い。

皇太后が摂政のドルゴンどるごんと再婚したという「太后下嫁かか」の話が広く知られるが、確かな記録はなく俗説とされる。

11西太后せいたいこう(慈禧じき太后)三大悪女

清しん末(19世紀後半〜20世紀初め)

約半世紀にわたって清の実権を握った

咸豊帝かんぽうていの妃で、ただ一人の息子同治帝どうちていを産んだ。1861年に咸豊帝かんぽうていが死ぬと、東太后とうたいこう・恭親王きょうしんのうと組んで重臣たちを倒し、6歳の同治帝どうちていの後ろで垂簾聴政すいれんちょうせいを始めた。同治帝どうちていが19歳で死ぬと、4歳のおい光緒帝こうしょていを立てて、再び実権を握った。1898年、光緒帝こうしょていが近代化の改革(戊戌ぼじゅつの変法へんぽう)を始めると、わずか100日あまりでこれを潰して皇帝を幽閉した。1900年には義和団を後押しして列強に宣戦し、北京を占領されて西安へ逃れた。1908年、光緒帝こうしょていが死んだ翌日に世を去り、その数年後に清は滅んだ。

海軍の予算を頤和園いわえんの再建に回したことが日清戦争の敗北につながった、とよくいわれる。一方で、洋務運動ようむうんどうを認めて近代的な工場や軍を育てた面もあり、近年は評価の見直しも進んでいる。

女帝・皇太后についてよくある疑問

Q. 中国の女帝は何人いた?

正式に皇帝として即位し、国を治めた女性は武則天ぶそくてんただ一人である。528年の北魏ほくぎで、生まれたばかりの皇女が男の子と偽られて皇帝に立てられ、すぐに廃された例があるが、ふつうは女帝に数えない。呂后りょこうや西太后せいたいこうは皇帝以上の権力を握ったが、あくまで皇太后として政治を行い、自ら即位はしていない。

Q. 垂簾聴政(すいれんちょうせい)とは?

皇帝が幼いときなどに、皇太后が代わって政治を行うこと。男性の臣下しんかと直接顔を合わせないよう、玉座の後ろに簾すだれを垂らし、その向こうから政治を聞いたことからこう呼ばれる。漢代には「臨朝称制りんちょうしょうせい」と呼ばれ、清末の西太后せいたいこうがもっとも有名な例である。

Q. 「中国三大悪女」は本当に悪女だった?

日本では呂后りょこう・武則天ぶそくてん・西太后せいたいこうの三人がよく「中国三大悪女」と呼ばれる。たしかに三人とも政敵せいてきや側室そくしつに残酷ざんこくな仕打ちをしたが、呂后りょこうの時代は民の生活が安定し、武則天ぶそくてんの時代には人口が増え、西太后せいたいこうも清の立て直しを支えた面がある。歴史書を書いたのは「女性が政治をするのは国が乱れるもと」と考える男性の官僚たちだったため、悪い面が強調されてきたという指摘も多い。

Q. 日本の女性天皇との違いは?

日本では推古天皇すいこてんのうから江戸時代の後桜町天皇ごさくらまちてんのうまで、8人(10代)の女性天皇が即位している。中国で女帝が武則天ぶそくてん一人だけだったのとは対照的である。偶然にも、武則天ぶそくてんが皇帝に即位した690年は、日本で持統天皇じとうてんのうが正式に即位した年でもあり、同じ年に日本と中国の両方で女性が頂点に立っていた。

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