「中国五千年史」- 新石器時代から現代まで、王朝・人物・出来事を年表と地図で辿る。日本史との対照や、歴史小説・漫画の紹介も
中国の長い歴史の中で、正式に皇帝となった女性は武則天ただ一人しかいない。しかし皇帝の母や妻として、皇帝に代わって国を動かした女性は数多くいた。幼い皇帝の後ろで政治を行った皇太后、皇帝と並んで政治に加わった皇后、自ら軍を率いた太后まで、時代順に紹介する。
夫劉邦の死後、15年にわたって漢を動かした
漢を開いた劉邦の皇后。劉邦が死ぬと息子の恵帝を立て、皇太后として実権を握った。劉邦に愛された側室戚夫人の手足を切り落として「人彘(人ブタ)」と呼ばせ、その子を毒殺した話はあまりに有名で、それを見た恵帝は心を病んで政治を投げ出したという。恵帝の死後も幼い皇帝を立てて自ら政治を行い(臨朝称制)、呂氏の一族を次々と王にした。前180年に呂后が死ぬと、重臣たちが呂氏一族を滅ぼし、文帝が迎えられた。
16年間国を支えた「賢い皇太后」
後漢の和帝の皇后。105年に和帝が死ぬと、生まれて100日あまりの殤帝、続いて13歳の安帝を立て、121年に死ぬまで16年間、皇太后として政治を行った。洪水や干ばつ、羌族の反乱が続く苦しい時代に、宮中の贅沢を削って被災者の救済にあて、学問も重んじた。紙を改良した宦官蔡倫を取り立てたのも鄧綏である。
権力争いで八王の乱に火をつけた皇后
西晋の恵帝の皇后。夫の恵帝は政治ができないほど暗愚だったといわれ、賈南風は291年、皇族の力を借りて皇太后の一族楊氏を滅ぼし、実権を握った。その後も皇族や重臣を次々と陥れ、自分の子ではない皇太子まで殺害したため、300年に皇族の司馬倫に殺された。皇族どうしの殺し合いはここから本格化し(八王の乱)、西晋は滅亡へと向かった。
孝文帝を育て、北魏の大改革を進めた
北魏の文成帝の皇后。夫の死後、皇太后として政治に関わり、孫の孝文帝が幼くして即位すると、490年に死ぬまで実権を握った。土地を国が民に分け与える均田制(485年)や、村の組織を整える三長制など、のちの隋・唐にまで受け継がれる制度を作った。孝文帝の漢化政策は、この祖母の改革の上に築かれている。
夫と並んで「二聖」と呼ばれた
隋を建てた文帝(楊堅)の皇后。朝廷に出る文帝と同じ輿で宮殿へ向かい、政治の相談にもあずかったため、二人は「二聖」と呼ばれた。文帝に側室を持たせないことでも知られ、皇太子楊勇が側室を寵愛すると嫌って、質素にふるまっていた次男楊広を後継に推した。その楊広こそが、のちに隋を滅ぼす煬帝である。
中国史上ただ一人、皇帝として即位した女性
太宗の後宮に才人として入り、次の高宗の皇后となった。病気がちな高宗に代わって政治を行い、高宗の死後は息子の皇帝を次々と廃して、690年、国号を「周」と改めて自ら皇帝に即位した。密告を奨励し、酷吏を使って反対派を粛清した一方で、科挙で家柄にとらわれず人材を登用し、狄仁傑のような名臣も育てた。705年、80歳を過ぎて退位させられ、唐が復活した。
第二の女帝をめざした女性たち
武則天の退位後、息子の中宗の皇后韋氏は、武則天にならって政治に口を出し、娘の安楽公主は自分を「皇太女」にするよう父に求めた。710年に中宗が急死すると、韋皇后が毒殺したとうわさされた。これに対し、武則天の娘太平公主とおいの李隆基が兵を挙げて韋皇后を殺した。しかし今度は太平公主が、即位した李隆基(玄宗)と権力を争い、713年に自害に追いこまれた。
皇帝の礼服を着たが、女帝にはならなかった
北宋の真宗の皇后。もとは芸人だったともいわれる低い身分から皇后に上りつめた。1022年に真宗が死ぬと、幼い仁宗に代わって11年間政治を行った。武則天のように即位するよう勧める者もいたが、劉娥は「祖先にそむくことはできない」と退けた。ただ晩年には、皇帝だけが着る礼服で祖先の霊廟に参拝し、周囲を驚かせている。
自ら軍を率いて北宋と戦った
北方の契丹人の国遼の皇后で、夫の死後、12歳の息子聖宗に代わって27年間国を治めた。北宋の楊業を捕らえた986年の戦いの時期にも遼を率いており、楊家将の物語では宿敵として登場する。1004年には自ら聖宗とともに大軍を率いて北宋に攻め込み、北宋から毎年銀と絹を受け取る「澶淵の盟」を結ばせた。この和約で両国の間には100年あまりの平和が続いた。
二人の幼い皇帝を支えた清初の「国母」
モンゴルの王族の出身で、清のホンタイジの妃。息子の順治帝が6歳で即位し、その順治帝も若くして死ぬと、今度は8歳の孫康熙帝を立てた。自らは表に出て政治を行うことはなかったが、康熙帝の教育に力を注ぎ、権力を振るう重臣オボイを除くときにも孫を支えた。清の最盛期を開いた康熙帝を育てた祖母として、中国では今も評価が高い。
約半世紀にわたって清の実権を握った
咸豊帝の妃で、ただ一人の息子同治帝を産んだ。1861年に咸豊帝が死ぬと、東太后・恭親王と組んで重臣たちを倒し、6歳の同治帝の後ろで垂簾聴政を始めた。同治帝が19歳で死ぬと、4歳のおい光緒帝を立てて、再び実権を握った。1898年、光緒帝が近代化の改革(戊戌の変法)を始めると、わずか100日あまりでこれを潰して皇帝を幽閉した。1900年には義和団を後押しして列強に宣戦し、北京を占領されて西安へ逃れた。1908年、光緒帝が死んだ翌日に世を去り、その数年後に清は滅んだ。
正式に皇帝として即位し、国を治めた女性は武則天ただ一人である。528年の北魏で、生まれたばかりの皇女が男の子と偽られて皇帝に立てられ、すぐに廃された例があるが、ふつうは女帝に数えない。呂后や西太后は皇帝以上の権力を握ったが、あくまで皇太后として政治を行い、自ら即位はしていない。
皇帝が幼いときなどに、皇太后が代わって政治を行うこと。男性の臣下と直接顔を合わせないよう、玉座の後ろに簾を垂らし、その向こうから政治を聞いたことからこう呼ばれる。漢代には「臨朝称制」と呼ばれ、清末の西太后がもっとも有名な例である。
日本では呂后・武則天・西太后の三人がよく「中国三大悪女」と呼ばれる。たしかに三人とも政敵や側室に残酷な仕打ちをしたが、呂后の時代は民の生活が安定し、武則天の時代には人口が増え、西太后も清の立て直しを支えた面がある。歴史書を書いたのは「女性が政治をするのは国が乱れるもと」と考える男性の官僚たちだったため、悪い面が強調されてきたという指摘も多い。
日本では推古天皇から江戸時代の後桜町天皇まで、8人(10代)の女性天皇が即位している。中国で女帝が武則天一人だけだったのとは対照的である。偶然にも、武則天が皇帝に即位した690年は、日本で持統天皇が正式に即位した年でもあり、同じ年に日本と中国の両方で女性が頂点に立っていた。
皇后や妃たちの後宮での位、歴史に名を残した四大美女、後宮の女性を描いたドラマの史実も解説しています。