後唐の河東節度使であった石敬瑭は、朝廷から猜疑の目を向けられたことを機に反旗を翻し、自力での勝算に乏しかったことから北方の契丹(遼)の耶律徳光に軍事支援を求めた。この援助の代償として石敬瑭は燕雲十六州(現在の北京・大同を含む北方の要地)を契丹に割譲し、さらに契丹皇帝に対して臣下の礼を取り「児皇帝」と自称することまで受け入れたと伝えられる。936年、契丹の後ろ盾を得た石敬瑭は後唐を滅ぼして後晋を建て皇帝となったが、この時に手放した燕雲十六州は中国側にとって北方防衛の要となる山岳地帯を含んでおり、以後の中原王朝は長らく北方民族に対する天然の防壁を失うことになった。この失地は北宋の時代に至っても回復されず、遼・金との緊張関係や後の靖康の変に至る北方情勢の根本的な弱点として、実に400年以上後の明初まで尾を引くことになる。
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