五
907 – 960

五代十国の出来事一覧(五代十国時代)

唐が滅びると、中原には五つの短命王朝が目まぐるしく興亡し、地方には十の国々が割拠する。わずか半世紀の間に王朝が入れ替わり続けたこの乱世は、次の統一者・趙匡胤の登場によって、ようやく終わりを告げる。

907後梁こうりょうの建国
王朝

唐を滅ぼした朱全忠(後の太祖)は開封(汴州)を都として後梁を建てたが、その支配基盤は決して安定したものではなかった。即位からほどなく後継者争いが起こり、実子朱友珪が父を弑逆して帝位を奪う事件が起きるなど、建国当初から宮廷内部の権力闘争が絶えなかった。また河北方面では、唐から独立していた有力な藩鎮である晋王李克用・李存勗父子の勢力が根強く残っており、後梁は華北全域を完全に掌握することができないまま、慢性的な軍事的緊張にさらされ続けた。このように後梁は五代の最初の政権でありながら短命かつ不安定な統治にとどまり、以後約半世紀にわたって短命政権が交代を繰り返す五代十国時代の幕開けとなった。

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923後唐こうとうの建国
王朝

晋王李克用の子李存勗は、父の遺言(三本の矢に託した宿敵討伐の誓い)を胸に勢力を拡大し、923年についに後梁を滅ぼして自ら皇帝(荘宗)に即位、国号を唐(後唐)と定めた。後唐はその後前蜀も併合し、五代の中で最も広い版図を築いた政権として知られる。しかし荘宗は芝居や音楽を深く愛好し、自ら俳優のように舞台に立って「李天下」と名乗ったと伝えられるほど政務を疎かにし、寵臣や宦官の専横も相まって朝廷内の不満が高まっていった。926年には近衛軍の反乱(興教門の変)により荘宗は殺害され、義兄弟の李嗣源(明宗)が新たに即位するなど、最大版図を誇りながらも後唐の政権基盤は終始不安定なままであった。

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936燕雲十六州えんうんじゅうろくしゅうの割譲
対外関係

後唐の河東節度使であった石敬瑭は、朝廷から猜疑の目を向けられたことを機に反旗を翻し、自力での勝算に乏しかったことから北方の契丹(遼)の耶律徳光に軍事支援を求めた。この援助の代償として石敬瑭は燕雲十六州(現在の北京・大同を含む北方の要地)を契丹に割譲し、さらに契丹皇帝に対して臣下の礼を取り「児皇帝」と自称することまで受け入れたと伝えられる。936年、契丹の後ろ盾を得た石敬瑭は後唐を滅ぼして後晋を建て皇帝となったが、この時に手放した燕雲十六州は中国側にとって北方防衛の要となる山岳地帯を含んでおり、以後の中原王朝は長らく北方民族に対する天然の防壁を失うことになった。この失地は北宋の時代に至っても回復されず、遼・金との緊張関係や後の靖康の変に至る北方情勢の根本的な弱点として、実に400年以上後の明初まで尾を引くことになる。

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947後漢こうかんの建国
王朝

契丹(遼)の南下によって後晋が滅ぼされ一時的に開封が占領されると、契丹軍の過酷な統治や略奪に対して中原の民衆・地方勢力の抵抗が各地で強まり、契丹軍はほどなく北方へ撤退を余儀なくされた。この混乱に乗じて河東節度使劉知遠が太原で皇帝を称し、契丹撤退後の開封に入城して後漢を建てた。しかし劉知遠は建国の翌年に病没し、跡を継いだ若い隠帝が重臣たちを次々と粛清しようとしたことで軍の実力者郭威の離反を招き、後漢はわずか4年というきわめて短い期間で崩壊することになった。五代の中でも後漢は最も短命な王朝であり、この政権の急速な瓦解が次の後周建国、さらには北宋の統一へとつながる連鎖の一齣となった。

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951後周こうしゅうの建国(郭威かくい)
王朝

後漢の重臣であった郭威は、若い隠帝から謀反の疑いをかけられ一族を殺害される事態に陥ったことを機に挙兵し、その最中に隠帝が乱兵により殺害されると、諸将に推戴される形で自ら皇帝に即位し後周を建てた。郭威は即位後、重税の軽減や流民の帰農を促す施策を進めて荒廃した華北の民生回復に努め、五代の歴代政権に比べて相対的に安定した統治基盤を築いたと評価される。実子を持たなかった郭威は、皇后の甥にあたる有能な養子柴栄(後の世宗)を後継者に指名しており、この人選が結果的に後周、さらには後の宋による中国再統一への道筋を用意することになった。短命な政権が乱立した五代十国の中にあって、後周の建国は次代の統一に向けた重要な転換点として位置づけられる。

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959世宗せいそう柴栄さいえいの死
王朝

後周の世宗柴栄は即位後、南は南唐から淮南の要地を奪い、北は契丹(遼)に対しても遠征を敢行して瀛州・莫州・易州を回復するなど、統一事業を積極的に推し進めた名君として知られる。内政面でも禁軍の精鋭化を進めて後の宋の軍事力の基盤を作ったほか、955年には仏教寺院の経済力を抑制する大規模な廃仏(三武一宗の法難の一つに数えられる)を断行し、寺院の銅像を鋳潰して貨幣不足の解消に充てるなど実務的な改革者でもあった。しかし燕雲十六州の回復を目指した北伐の途上で病を得て、959年、志半ばの39歳で急逝してしまう。幼い恭帝が後を継いだことで後周の権力基盤には空白が生じ、この状況が翌年、有力武将であった趙匡胤による皇帝擁立劇(陳橋の変)を招く直接の要因となった。

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960趙匡胤ちょうきょういんのクーデター
戦争・動乱

後周の若い恭帝の治世下、契丹と北漢の連合軍来襲の報を受けて出征した将軍趙匡胤は、開封近郊の陳橋駅まで進んだところで部下の将兵に擁立され、黄色い衣(皇帝の象徴とされる黄袍)を着せられて皇帝に推戴されたと伝えられる、いわゆる「陳橋の変・黄袍加身」の故事である。趙匡胤は軍を開封へと引き返させると、まだ幼い恭帝に迫って穏便に禅譲を受け、流血をほとんど伴わない形で自ら皇帝に即位した。この政権交代は、それまでの五代の各王朝交代でしばしば見られた殺戮や粛清を伴う激しい権力闘争とは対照的に、比較的平和的に進められたことが特徴とされる。趙匡胤はただちに国号を宋と定めて開封を都とし、この即位が約半世紀にわたり中国を分裂させてきた五代十国の混乱に終止符を打つ最終的な転機となった。

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