「中国五千年史」- 新石器時代から現代まで、王朝・人物・出来事を年表と地図で辿る。日本史との対照や、歴史小説・漫画の紹介も
世界史の中国史でよく出る用語を、分野ごとに時代順で並べました。制度の名前は、前の時代の何を受け継ぎ、何を改めたのかという流れで覚えると忘れにくくなります。まぎらわしい用語の違いは最初の表にまとめています。
| 用語A | 用語B | 違いのポイント |
|---|---|---|
| 郡県制(秦) | 郡国制(前漢) | 全国を直接治めるか、地方に王を置く併用か |
| 租庸調制(隋・唐) | 両税法(唐・780年) | 人にかける税から、土地・財産にかける税へ |
| 府兵制 | 募兵制 | 農民に兵役を課すか、給料で兵を雇うか |
| 一条鞭法(明) | 地丁銀制(清) | 税を銀でまとめて納める → さらに人頭税をなくして土地税だけに |
| 朱子学(南宋・朱熹) | 陽明学(明・王陽明) | 理を外の物事にきわめるか、心の中に求めるか |
周王が一族や功臣に土地を与えて諸侯とし、諸侯は王に貢ぎ物と軍役で仕えた制度。一族の血のつながり(宗法)で結びついていたのが特徴で、ヨーロッパの封建制とはしくみが異なる。 関連ページ →
全国を郡と県に分け、中央から役人を派遣して直接治める制度。始皇帝が統一後に全国で実施し、中央集権の基本形となった。 関連ページ →
都の周りは郡県制で直接治め、地方には一族などを王として封じる、郡県制と封建制の併用。前154年の呉楚七国の乱のあと、王の力が削られ実質的に郡県制に近づいた。 関連ページ →
地方の中正官が人物を9等級に評価して役人に推薦する制度。実際には有力な豪族の子弟ばかりが高く評価され、「上品に寒門なく、下品に勢族なし」といわれて門閥貴族を生んだ。隋で廃止され科挙に代わった。 関連ページ →
詔勅を起草する中書省、それを審議する門下省、実行する尚書省の三省と、尚書省の下で実務を分担する吏・戸・礼・兵・刑・工の六部からなる中央官制。日本の律令制のお手本になった。 関連ページ →
辺境の防衛のため置かれた軍団の長。やがて軍事だけでなく財政や行政まで握って半ば独立し、安禄山が安史の乱を起こした。乱のあとは各地の節度使(藩鎮)が割拠し、唐を弱らせた。 関連ページ →
唐末・五代に武人が割拠した反省から、軍人の力を抑え、科挙で選んだ文官に政治を任せた方針。国内は安定したが軍事力が弱まり、北方の遼・金に苦しむ原因にもなった。 関連ページ →
ヌルハチが作った満州人の軍事・社会組織。8色の旗で軍団を分け、兵士とその家族を所属させた。清の中国支配の柱となった。 関連ページ →
雍正帝の時代に、西北での戦争の機密を扱うために設けられた皇帝直属の機関。やがて政治の最高機関となり、皇帝の独裁を支えた。 関連ページ →
土地を「井」の字に9等分し、周りの8区画を8家が耕し、中央の1区画を共同で耕して収穫を納めたという制度。孟子が理想として説いたもので、実際に行われたかは疑問とされる。
曹操が始めた、兵士や流民に土地を耕させて食糧を確保する制度。戦乱で荒れた土地を復興させ、魏が三国でもっとも強くなる土台となった。 関連ページ →
国が成年男子などに土地を支給し、死ぬと返させる制度。485年に北魏で馮太后のもと始まり、隋・唐に受け継がれた。日本の班田収授法はこれにならったもの。 関連ページ →
均田制で土地を受けた農民に課した税。租は穀物、庸は都での労役(または代わりの絹・布)、調は絹や布などの特産物。人に対してかける税だった。 関連ページ →
均田制で土地を受けた農民から兵を出させる制度。兵士は武器や食糧を自分で用意して交代で勤務した。農民の負担が重く、均田制がくずれると成り立たなくなった。
給料を払って兵士を雇う制度。府兵制がくずれた8世紀前半から広まり、節度使が率いる職業軍人の軍団が生まれた。
宰相楊炎の献策で始まった税制。今住んでいる土地で、持っている土地や財産の多さに応じて、夏と秋の年2回納めさせた。人ではなく財産に税をかける方式で、以後の中国の税制の基本となった。
土地の税と労役など、複雑に分かれていた税をまとめて銀で納めさせる制度。日本やアメリカ大陸から銀が大量に流れこんだことが背景にあり、張居正が全国に広めた。
人にかける税(丁銀)を土地の税(地銀)に組みこみ、土地の税だけにした制度。康熙帝が人頭税の額を固定し、雍正帝の時代に全国に広まった。人頭税がなくなったため、登録される人口が急増した。 関連ページ →
戦乱の時代に現れた多くの思想家と学派のこと。儒家(孔子・孟子・荀子)、道家(老子・荘子)、法家(商鞅・韓非)、墨家(墨子)、兵家(孫子)などがある。 関連ページ →
人の本性は善であり、それを育てればよいとする孟子の性善説と、人の本性は悪であり、礼によって正す必要があるとする荀子の性悪説。荀子の弟子から法家の韓非や李斯が出た。
始皇帝が法家の李斯の意見で、医薬・占い・農業以外の書物を焼かせ、批判した学者らを生き埋めにしたとされる思想統制。 関連ページ →
武帝が董仲舒の意見を取り入れ、儒学を国の学問とし、五経博士を置いたこと。以後、儒学は2000年にわたって中国の政治と教育の中心となった。 関連ページ →
朱熹が大成した新しい儒学。世界は「理」と「気」からなるとし、物事の理をきわめて知を深める(格物致知)ことを重んじた。元以降は科挙の基準となり、日本では江戸幕府の公式の学問となった。 関連ページ →
王守仁(王陽明)が始めた儒学。人の心そのものに理がある(心即理)とし、知ることと行うことは一つ(知行合一)と説いた。日本では大塩平八郎や幕末の志士に影響を与えた。
古い書物の文字や内容を、証拠にもとづいて実証的に研究する学問。顧炎武らが基礎を築いた。清朝が政治批判を厳しく取りしまった(文字の獄)ことも、学者が政治から離れて文献研究に向かう一因になったといわれる。
中国の皇帝が周りの国の君主に王などの称号を与えて君臣関係を結び、相手国が貢ぎ物を送る(朝貢)国際秩序。57年に倭の奴国王が後漢の光武帝から金印を受け、239年に卑弥呼が魏から「親魏倭王」の称号を受けたのもこのしくみ。 関連ページ →
従えた異民族の土地に都護府を置いて監督しながら、実際の統治はその民族の首長に任せる政策。唐の広い領土を支えた。 関連ページ →
海上貿易を管理し、関税を取る役所。唐代に広州に置かれ、海の貿易がさかんになった宋代には各地の港に増やされた。
四川で商人たちが使い始め、のちに国が発行した紙幣。世界でもっとも早い時期の紙幣の一つで、南宋の会子、元の交鈔へと続いた。 関連ページ →
民間の人が海外と貿易したり海に出たりすることを禁じた政策。貿易は国どうしの朝貢に限られた。倭寇の対策でもあったが、かえって密貿易を増やし、16世紀後半にゆるめられた。
明と室町幕府の間の朝貢貿易。倭寇と区別するため、正式な船は「勘合」という合い札を持って行き来した。足利義満が始めた。 関連ページ →
ヨーロッパとの貿易を独占した広州の特許商人の組合。1757年に西洋との貿易港は広州一つに限られた。イギリスはこの制限に不満を強め、アヘン戦争後の南京条約で公行は廃止された。 関連ページ →
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