後
25 AD – 220 AD

後漢の出来事一覧

劉氏の血を引く劉秀が漢を再興し、都を洛陽に定める。紙の発明、西域経営の再開——文明はふたたび花開くが、宦官と外戚の権力争いは王朝の土台を静かに蝕んでいく。黄巾の乱の狼煙とともに、時代は英雄たちが割拠する乱世へと突入する。

AD 25光武帝こうぶてい、漢を再興
王朝

新末の動乱の中で緑林軍から頭角を現した劉秀は、昆陽の戦いでの勝利などを経て諸勢力をまとめ上げ、紀元25年に皇帝に即位して漢王朝の再興を宣言した。前漢の高祖劉邦から数えて九世の子孫にあたるとされるが、即位当初の実際の勢力基盤は乏しく、その後十数年をかけて各地に割拠する群雄を次々と平定し、ようやく中国全土の再統一を果たすことになる。都は前漢の長安ではなく洛陽に定められたため、以後の時代は前漢と区別して「後漢」(または都の位置から東漢)と呼ばれる。即位後は度重なる戦乱で疲弊した社会を立て直すため、租税の軽減や奴婢の解放、官制の整理などの内政に力を注ぎ、その治世は「光武中興」と呼ばれる安定期として評価されている。武力による統一と柔軟な内政を両立させた統治手腕は、後世の皇帝たちの一つの模範ともされてきた。

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AD 73班超はんちょうの西域経営
対外関係

歴史書『漢書』の編纂で知られる班固の弟である班超は、匈奴に対抗するための使節団の一員として西域に派遣されたのを機に、以後30年近くにわたり現地で活動を続けた人物である。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の故事で知られるように、少人数の従者とともに大胆な行動で西域諸国を次々と漢に服属させ、最終的には西域都護(西域統治の最高責任者)に任じられて広大な地域に影響力を及ぼした。武力による征服よりも、諸国間の対立関係を巧みに利用した外交交渉によって勢力を広げた点が班超の統治の特徴とされ、これにより一時中断していたシルクロード交易路の安定が回復した。晩年には部下の甘英を遠くローマ帝国(大秦)へ向けて派遣しようとするなど、当時の中国人が持ち得た西方世界への関心の広がりを示す逸話も残されている。班超の西域経営は、前漢の張騫が切り開いた交易路を後漢の時代においても維持・発展させた重要な事業として位置づけられている。

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AD 105製紙法の改良(蔡倫さいりん)
文化

それまでも紙に類するものは存在したが、高価であったり書写に適さなかったりと実用性に乏しかった。宦官として宮廷に仕えた蔡倫は、樹皮・麻くず・ぼろ布・漁網といった身近で安価な材料を組み合わせて改良を重ね、薄く均質で書写に適した実用的な製紙法を確立したと『後漢書』は伝えている。この製法は皇帝に献上されて高く評価され、以後「蔡侯紙」と呼ばれて宮廷から民間へと徐々に普及していった。紙の普及によって、それまで竹簡・木簡や高価な絹布に頼っていた文書の記録・伝達が格段に容易になり、学問・行政・文化のあらゆる面での情報流通が飛躍的に進むことになる。この製紙技術は後にシルクロードを通じて西方へも伝わり、8世紀にはイスラム世界、さらに12世紀頃にはヨーロッパにも伝播して、世界の文明史に計り知れない影響を及ぼす発明となった。

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AD 166党錮とうこの禁
文化

後漢中期以降、幼少の皇帝が相次いだことにより外戚と宦官が交互に実権を握る政治構造が定着し、これに対して清廉な官僚や太学の学生らが批判の声を上げるようになっていた。彼らは自らを「清流」と称し宦官勢力を「濁流」として厳しく非難したが、これに反発した宦官側の讒言により、166年(第一次)と169年(第二次)の二度にわたり、批判勢力の官僚・学者が投獄・処刑・終身禁錮などの弾圧を受ける事件が起こった。禁錮とされた者は生涯にわたり官職に就くことを禁じられ、この処分は本人だけでなく門人や親族にまで及ぶ厳しいものであったと伝えられる。この弾圧により、腐敗した宦官政治を是正しうる健全な官僚勢力が政界から排除される結果となり、後漢の統治機構は自浄能力を失っていった。この事件は後の黄巾の乱に至る社会不安の深刻化と、後漢の急速な衰退を招いた重要な要因の一つとして位置づけられている。

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AD 184黄巾こうきんの乱
戦争・動乱

宦官政治や度重なる天災による社会不安を背景に、張角が創始した宗教結社「太平道」の信徒たちが中心となって蜂起した大規模な農民反乱である。信徒は目印として黄色い布を頭に巻いたことから「黄巾」と呼ばれ、「蒼天已死、黄天当立(漢の天はすでに死し、新たな黄天の世が立つべし)」というスローガンを掲げて、短期間のうちに華北一帯に反乱を広げた。朝廷は皇甫嵩・盧植・朱儁ら諸将を派遣して鎮圧に当たらせ、指導者張角も病死したことで反乱の主力は比較的早期に制圧されたが、その後も各地で残党の蜂起が長く続いた。この反乱の鎮圧過程で地方に軍事権を持つ実力者、後に群雄と呼ばれる存在が各地に台頭し、中央の統制は事実上失われていくことになる。黄巾の乱は後漢滅亡と群雄割拠、そして三国時代への幕開けを告げる画期的な事件として位置づけられている。

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