武断政治への反省から、趙匡胤は文治主義を掲げて新王朝を開く。科挙官僚が国を動かし、経済と文化は爛熟の域に達する——だが北方の異民族国家に圧迫され続けた宋は、軍事的には終始劣勢を強いられた。そして女真族・金の南下により、都は陥落する。
陳橋の変を経て即位した趙匡胤(太祖)は、後周から禅譲を受けて国号を宋と定め、開封を都とした。もっとも即位した時点では荊南・後蜀・南漢・南唐・呉越・北漢など十国の系譜を引く政権が各地になお存続しており、太祖とその弟太宗の二代にわたる約20年間の征服・帰順工作を経て、979年の北漢平定によりようやく実質的な中国統一が達成されることになる。太祖は即位当初から、武断政治によって王朝交代が繰り返された五代の教訓を踏まえ、軍人の力を抑えて文人官僚を重んじる文治主義への転換を明確に志向していた。この統一達成までの過程と並行して進められた文治体制の構築は、以後300年以上続く宋王朝の基本的な国是として定着していくことになる。
→即位翌年の961年、太祖は石守信ら建国の立役者となった禁軍の有力将軍たちを酒宴に招き、自らも即位の経緯(黄袍加身)に触れながら、功績のありすぎる部下を持つ君主の不安を巧みに説いて聞かせたと伝えられる。翌日、意を汲んだ将軍たちは相次いで病を理由に辞職を願い出て兵権を返上し、太祖はその見返りに広大な田宅や皇族との縁組みといった手厚い待遇を与えたとされる。この巧みな話術と懐柔によって、唐末以来長らく中国を苦しめてきた軍閥割拠の温床となる兵権の私物化を、流血を伴わずに解消することに成功した。この一件を皮切りに、宋代には軍の指揮権と兵力動員権を分離する仕組みや文官による軍事監督の強化など、武断勢力の台頭を防ぐための諸制度が体系的に整えられていくが、これは同時に宋の軍事力を慢性的に弱体化させ、後の遼・西夏・金との抗争で苦戦を強いられる遠因になったとも評価される。
→燕雲十六州の奪還を悲願とする宋の太宗は、979年の高梁河の戦いでの大敗から7年後の986年(雍熙3年)、遼で幼い聖宗が即位したのを好機とみて、東・中・西の三路から大軍を北上させた。潘美を主将、楊業を副将とする西路軍は雲州・応州・寰州・朔州の四州を次々と攻略したが、幽州を目指した曹彬率いる東路の主力軍が岐溝関で遼の名将耶律休哥に大敗したことで、北伐は全面撤退に転じる。西路軍は攻略した四州の住民を宋の領内へ移す任務を負ったが、監軍王侁は危険を説く楊業を臆病者となじって出撃を強い、楊業は陳家谷の谷口に援軍の伏兵を置くよう求めて出陣した。しかし約束の援軍は持ち場を離れており、遼の耶律斜軫の大軍に包囲された楊業は奮戦の末に捕らえられ、食を絶って死んだと伝えられる。宋の北伐はこれを最後に事実上終わり、名将を見殺しにしたこの悲劇は、のちに楊一族の活躍を描く「楊家将」の物語として民間で語り継がれていく。
→遼の聖宗とその母蕭太后が親征して大軍を南下させ、宋の都開封に近い澶州(現・河南省濮陽)の対岸にまで迫ると、宋の朝廷内では一時遷都して難を逃れるべきだとの意見も出るほどの動揺が広がった。しかし宰相寇準は皇帝真宗に親征を強く進言し、真宗自らが澶州城頭に姿を現したことで宋軍の士気は大いに高まり、遼の将軍蕭撻凜を城下で射殺するなど戦況は宋側にやや有利に傾いた。この情勢を受けて両国は和議を結び、宋と遼は兄弟の国として対等な関係を結ぶ一方、宋が毎年銀10万両・絹20万匹を「歳幣」として遼に贈るという条件で国境の現状維持が合意された(澶淵の盟)。この盟約は屈辱的な内容と評されることもあるが、実際には比較的小さな経済的負担と引き換えに、以後約120年間にわたる宋遼間の平和と活発な交易関係をもたらす結果となり、実利を重んじた外交解決の先例として評価されることもある。
→財政悪化と冗官・冗兵・冗費という「三冗」問題、さらに遼・西夏への歳幣や防衛費の重い負担に苦しんでいた北宋中期、神宗に登用された王安石は「富国強兵」を掲げて青苗法・募役法・市易法・保甲法・将兵法など多岐にわたる急進的な改革(新法)を次々と実施した。これらの改革は国家財政の立て直しと軍事力強化を狙ったものであったが、地方での運用段階では農民や商人にかえって負担を強いる面もあり、司馬光(後に『資治通鑑』を編纂)ら旧来の制度を重んじる保守派官僚から激しい批判を浴びることになった。神宗の死後、幼帝を後見した太皇太后のもとで旧法党が政権を握ると新法はいったんほぼ全廃されるが、哲宗の親政開始後には再び新法派が実権を取り戻すなど、新法・旧法の党争は数十年にわたって一進一退を繰り返した。この長期化した党争は朝廷内の対立と内部消耗を深刻化させ、後世の一部の歴史家からは北宋が衰退へと向かう遠因の一つとみなされている。
→遼の支配下で女真族を統率していた完顔阿骨打は、遼の圧政に対する不満を背景に女真諸部族を統一し、1114年の寧江州の戦いで遼軍を破ると急速に勢力を拡大した。翌1115年、完顔阿骨打は皇帝を称して国号を金と定め、会寧(上京、現・黒竜江省)を都として新王朝を樹立した。当初金は遼への抵抗勢力として台頭したにすぎなかったが、燕雲十六州の奪還を悲願としていた北宋の徽宗政権はこれに着目し、金と結んで南北から遼を挟撃する「海上の盟」を締結するに至る。しかしこの同盟は結果的に宋にとって「引き狼入室(狼を家に招き入れる)」となり、遼滅亡後まもなく金は矛先を宋自身に転じることになり、北宋滅亡(靖康の変)へとつながる重大な布石となった。
→遼を滅ぼした金は、その勢いを駆って北宋との盟約を反故にし南下を開始した。1126年には早くも開封が包囲されるが、この時は宋側が多額の賠償金と領土割譲を条件に和議を結んでいったん囲みを解かせることに成功する(靖康元年)。しかし宋朝廷が約束した条件を十分に履行できなかったことなどから金軍は同年末に再び南下し、1127年についに開封は陥落した。皇帝欽宗とその父で書画・詩文に優れた文化人でもあった上皇徽宗をはじめ、皇族・后妃・官僚など数千人ともいわれる人々が金の捕虜として北方へ連行される屈辱的な結末を迎え、これは後世「靖康の変(靖康の恥)」と呼ばれる。欽宗の弟にあたる康王趙構だけは難を逃れて江南に落ち延び、後に高宗として即位して宋王朝の命脈を保つことになるが、都開封を含む華北の広大な領土は金の支配下に置かれることとなった。
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