219年史書
今夜の合言葉は「鶏のあばら骨」
曹操・楊修
漢中で劉備と戦っていた曹操は、進むことも守ることも難しくなり、ある日「鶏肋」とだけ命令を出した。部下は誰も意味がわからなかったが、楊修だけがさっさと帰り支度を始める。驚いて理由をたずねられると、「鶏のあばら骨は、捨てるには惜しいが食べるほどの肉もない。王はこれを漢中にたとえられた。つまり撤退なさるおつもりだ」と答えた。実際、曹操はまもなく軍を引き上げている。
「大して役に立たないが捨てるには惜しいもの」を鶏肋と呼ぶのはここから。小説『三国志演義』では、この先読みが楊修処刑のきっかけとして描かれる。
後漢末逸話集
「この先に梅林があるぞ」で行軍を乗り切る
曹操
行軍中に水のある場所への道を見失い、兵士たちがのどの渇きに苦しんでいた。そこで曹操は「前方に大きな梅林がある。実がたくさんなっていて、甘酸っぱくて渇きをいやせるぞ」と触れを出す。聞いた兵士たちは思わず口の中につばがわき、そのおかげで水源のある場所までたどり着くことができた。梅林が本当にあったとは、どこにも書かれていない。
「梅を望んで渇きを止む」の故事。この話が収められているのは、人をあざむく話を集めた章である。
217年逸話集
葬儀で参列者全員がロバの鳴きまね
曹丕・王粲
文人として名高い王粲は、ロバの鳴き声が大好きだった。王粲が亡くなって葬儀が行われたとき、弔問に訪れた曹丕(のちの魏の文帝)は、参列者を振り返ってこう提案した。「王粲はロバの鳴き声を好んでいた。みなで一声ずつ鳴いて、彼を送ってやろうではないか」。こうして弔問客たちは、一人ずつロバの鳴きまねをしたという。
格式ばった儀礼よりも故人の好みを大事にする、この時代らしい弔い方として伝えられる。
三国時代(3世紀前半)史書
父の顔をロバにたとえられた息子の、二文字の反撃
孫権・諸葛瑾・諸葛恪
呉の重臣・諸葛瑾(諸葛亮の兄)は面長で、ロバに似た顔立ちだった。あるとき孫権は宴会の席に一頭のロバを引いてこさせ、その顔に「諸葛子瑜」(子瑜は瑾の字)と書いた札を貼って、みなで笑った。すると、まだ少年だった息子の諸葛恪がひざまずいて「筆をお借りして二文字を書き加えさせてください」と願い出る。許されて書き足したのは「之驢」の二文字。札は「諸葛子瑜之驢(諸葛子瑜のロバ)」となり、一座は大笑い。孫権は感心して、そのロバを諸葛恪に与えた。
264年ごろ史書
「ここは楽しいので、蜀のことは思い出しません」
劉禅・司馬昭
蜀が滅び、洛陽に移された劉禅。宴席で蜀の音楽が演奏されると、旧臣たちはみな涙を流したが、劉禅だけはにこにこと楽しそうにしていた。司馬昭が「蜀が恋しくはありませんか」とたずねると、「ここは楽しいので、蜀のことは思い出しません」。見かねた旧臣の郤正が「次に聞かれたら、泣きながら『先祖の墓が蜀にあり、一日として思わぬ日はありません』と答え、目を閉じなさい」と教えた。後日また同じ質問をされた劉禅がその通りに答えると、司馬昭は「郤正の言葉にそっくりですな」。劉禅は驚いて目を開け、「まさにおっしゃる通りです」と答えたので、周りの者はみな笑った。
楽しさのあまり帰ることを忘れる意の「楽しみて蜀を思わず(楽不思蜀)」の出典。
魏〜西晋(3世紀)逸話集
「なぜ君たちは私のふんどしの中に入ってくるのか」
劉伶(竹林の七賢)
竹林の七賢の一人で、大酒飲みとして知られる劉伶は、酔うと家の中で服を脱いで裸になっていた。それを見た人がとがめると、こう言い返した。「私は天地を家とし、この部屋を褌としている。諸君はなぜ、私の褌の中に入ってくるのかね」。
礼儀作法に縛られることを嫌った、この時代の知識人の気風をよく表す話として知られる。
西晋(3世紀後半)逸話集
美男子をまねて街に出たら、つばを吐かれた
潘岳・左思
潘岳は、中国で美男子の代名詞になっているほどの容姿の持ち主だった。若いころ洛陽の街に出ると、女性たちが手をつないで取り囲み、車に果物を投げ入れるので、帰るころには車がいっぱいになったという。一方、名文家だが容貌には恵まれなかった左思が、これをまねて街をぶらついてみたところ、女性たちにいっせいにつばを吐きかけられ、ぐったりして帰ってきた。
ただし左思は、のちに書き上げた『三都賦』が大評判となり、書き写す人が殺到して紙の値段が上がった「洛陽の紙価を高める」の故事の主である。
西晋(3世紀末)史書
「穀物がないなら、肉のおかゆを食べればいいのに」
西晋の恵帝(司馬衷)
天下が乱れ、飢饉で多くの民が餓死していると聞いた恵帝は、不思議そうに「どうして肉糜(肉入りのおかゆ)を食べないのか」と言ったという。また、庭園でカエルの鳴き声を聞いたときには、側近に「あれは官のために鳴いているのか、それとも私のために鳴いているのか」とたずねている。
「パンがなければお菓子を」の中国版としてよく引かれる。この皇帝のもとで八王の乱が起こり、西晋は急速に傾いていった。
西晋(3世紀後半)逸話集
皇帝にもらった珊瑚を叩き割られる、大富豪の意地の張り合い
石崇・王愷
西晋を代表する大富豪の石崇と、皇帝の外戚である王愷は、何かにつけて贅沢を競い合った。王愷が飴で釜を洗わせれば、石崇は蝋燭を薪の代わりに燃やす、という具合である。あるとき王愷は、武帝から贈られた高さ二尺ほどのみごとな珊瑚の樹を石崇に自慢した。石崇はそれを眺めると、手にしていた鉄の如意でいきなり叩き割ってしまう。色をなして怒る王愷に「惜しむほどのことではない、すぐお返しする」と言って家の者に持ってこさせたのは、三尺、四尺もある珊瑚の樹が六、七本。王愷はがっくりと肩を落とした。
東晋(4世紀前半)逸話集
婿選びの使者が来たのに、腹を出して寝転がっていた青年
王羲之
重臣の郗鑒が、名門・王氏の一族から娘の婿を選ぼうと使者を送った。それを聞いた王家の若者たちはみな身なりを整え、取りすまして待っていたが、一人だけ東側の寝台で腹を出して寝転がり、まるで何も聞いていないかのように振る舞っている者がいた。報告を受けた郗鑒は「その男こそがよい」と即決する。調べてみると、それがのちに「書聖」と呼ばれる王羲之だった。
娘婿のことを「東床」と呼ぶのは、この故事にちなむ。