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中国史の笑えるエピソード・おもしろ逸話集

中国の歴史書は、王朝の興亡や戦争だけを記録しているわけではありません。トイレに落ちて亡くなった君主、儒者の冠に小便をした建国の英雄、自分で自分を大将軍に任命した皇帝など、思わず笑ってしまうような話も、大まじめに書き残されています。ここでは西周から清まで、そうしたエピソードを時代順に28話紹介します。

読む前に:史実と逸話の区別

おもしろい話ほど、語り継がれるうちに尾ひれがつきやすいものです。このページでは各エピソードに出典を示し、次の三つの区分を付けています。 「史書」に区分した話も、書かれている内容がすべて事実とは限らない点にはご注意ください。

  • 史書正史や編年体の史書に記録がある話
  • 逸話集『世説新語』など、人物の言行を集めた書物や随筆に伝わる話
  • 伝説史書に載っていても史実性が疑われている話、後世の脚色が濃い話

西周・春秋時代

記録が古いぶん伝説色も濃いが、君主たちの「やらかし」は妙に具体的に書き残されている。

西周末(前8世紀)伝説

笑わない后きさきのために、のろしで諸侯をだました王

周の幽王ゆうおう・褒姒ほうじ

幽王の寵妃・褒姒は、どうしても笑わない女性だった。あるとき敵襲を知らせるのろしを上げたところ、諸侯が大慌てで駆けつけたのに敵はどこにもいない。そのぽかんとした様子を見て、褒姒がはじめて大笑いした。喜んだ幽王は何度ものろしを上げ、諸侯はだんだん来なくなる。やがて本当に異民族の犬戎けんじゅうが攻めてきたとき、のろしを上げても誰も来ず、幽王は殺されて西周は滅んだという。

中国版「オオカミ少年」として有名だが、戦国時代の竹簡史料にはのろしの話が見えず、後世に作られた物語とみる研究者が多い。

出典:『史記しき』周本紀この時代を年表で読む →
前638年史書

敵が川を渡り終えるまで待ってあげて大敗

宋の襄公じょうこう

泓水おうすいのほとりで大国・楚の軍と向き合った襄公。楚軍が川を渡っている最中に「今こそ攻めましょう」と進言されると「いけない」。渡り終えてまだ陣が整わないうちに再び進言されても「まだいけない」。相手の準備が万端に整ってから正々堂々と開戦し、みごとに大敗した。襄公自身も股ももに傷を負い、それがもとで翌年亡くなっている。本人は「君子は傷ついた者をさらに傷つけず、白髪まじりの老兵を捕らえないものだ」と弁明した。

無用の情けをかけてひどい目にあうことを「宋襄の仁そうじょうのじん」と呼ぶのは、この故事から。

出典:『春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん』僖公二十二年この時代を年表で読む →
前581年史書

占いを外した巫を処刑した直後、トイレに落ちて亡くなる

晋の景公けいこう

病に伏した景公は、巫に「今年の新麦は召し上がれないでしょう」と予言される。やがて新麦の季節が来ると、景公は炊きあがった麦を巫に見せつけ「予言は外れたな」と処刑してしまった。ところが、いざ食べようとした瞬間に腹が張り、厠かわやに行ってそのまま落ちて亡くなった。結局、新麦は一口も食べられなかったのである。

同じ記事の中に、病魔が「肓こうの上、膏こうの下」に逃げ込む夢の話があり、手の施しようがないことをいう「病膏肓に入るやまいこうこうにいる」の語源にもなっている。

出典:『春秋左氏伝』成公十年この時代を年表で読む →
春秋時代後期(前6世紀)逸話集

「犬の国に来たなら犬の門から入りましょう」

斉の晏嬰あんえい(晏子あんし)

斉の名宰相・晏嬰は背が低かった。使者として楚を訪れると、楚の側はからかって、正門の脇に作った小さなくぐり戸から入らせようとする。晏嬰は「犬の国に使いする者は犬の門から入るものだ。私は楚の国に来たのだから、この門から入るわけにはいかない」と言って動かず、楚は正門を開けるしかなかった。さらに楚王が斉出身の盗人を引き出して「斉の人間は盗みが得意なのか」と皮肉ると、「淮南わいなんの橘たちばなも、淮北わいほくに植えれば枳からたちになります。楚の水と土が人を盗人にするのでしょう」と切り返している。

環境によって人の性質が変わることをいう「橘化して枳となるたちばなかしてからたちとなる」の出典。

出典:『晏子春秋あんししゅんじゅう』この時代を年表で読む →

秦・漢

『史記』『漢書』は人物描写が生々しく、建国の英雄の行儀の悪さまでしっかり書いてある。

前207年史書

鹿を連れてきて「これは馬です」

趙高ちょうこう・二世皇帝胡亥こがい

始皇帝の死後に実権を握った宦官の趙高は、群臣が自分に従うかどうかを試すことにした。二世皇帝の前に鹿を引き出して「馬でございます」と言う。皇帝は笑って「丞相は間違っている、鹿を馬と言っているぞ」と左右に尋ねたが、ある者は黙り、ある者は趙高にへつらって「馬です」と答えた。正直に「鹿です」と言った者は、のちに趙高によって罪に落とされたという。

「鹿を指して馬と為すしかをさしてうまとなす」の故事。日本語の「馬鹿」の語源とする説が有名だが、俗説とされ、語源ははっきりしていない。

出典:『史記』秦始皇本紀この時代を年表で読む →
秦末(前3世紀末)史書

儒者の冠を取り上げて、その中に小便をする

劉邦りゅうほう

のちに漢の初代皇帝となる劉邦は、若いころから儒者が大嫌いだった。儒者の冠をかぶった客が訪ねてくると、その冠をひょいと取り上げ、中に小便をしてしまう。人と話すときもしょっちゅう大声で罵ののしっていたと、『史記』ははっきり書いている。老儒者の酈食其れきいきが面会に来たときも、劉邦は寝台に腰かけて二人の女性に足を洗わせている最中だった。酈食其に「年長者にその態度で会うものではない」と叱られ、あわてて身なりを整えて上座に招いたという。

出典:『史記』酈生れきせい陸賈りくか列伝劉邦のページを読む →この時代を年表で読む →
前203年史書

「父を煮るぞ」と脅されて「私にもスープを一杯」

劉邦・項羽こうう

楚漢戦争のさなか、にらみ合いに業を煮やした項羽は、人質にしていた劉邦の父を大きなまな板の上にのせ、「今すぐ降伏しなければ、お前の父親を煮てしまうぞ」と告げた。すると劉邦は「わしとお前は義兄弟の契りを結んだ仲だ。つまりわしの父はお前の父でもある。どうしても自分の父親を煮るというなら、わしにもその羹あつものを一杯分けてくれ」と答えた。項羽は激怒したが、おじの項伯こうはくに諫められて思いとどまっている。

非情とも胆力とも評される名場面。この開き直りが、劉邦の父の命を救った。

前漢(前2世紀)史書

皇帝への反省文が、いつのまにか自分への絶賛に

東方朔とうほうさく・前漢の武帝ぶてい

夏の暑い日、武帝が役人たちに肉を下賜することになった。ところが分配役がいつまでたっても来ない。東方朔は勝手に剣を抜いて肉を切り取り、「暑いので早く帰らせてもらいます」と持ち帰ってしまった。翌日、武帝に「自分で自分を責めてみよ」と命じられた東方朔は、こう述べた。「詔みことのりを待たずに賜り物を受け取るとは、なんと無礼なことか。剣を抜いて肉を切るとは、なんと勇ましいことか。切り取ったのが少しだけとは、なんと清廉なことか。帰って妻に贈るとは、なんと情け深いことか」。武帝は笑って「自分を責めさせたのに、かえって褒めておる」と言い、酒一石と肉百斤をさらに与えて、妻への土産にさせた。

出典:『漢書かんじょ』東方朔伝この時代を年表で読む →
新末〜後漢初(1世紀)史書

若き日の「高望み」を、軽々と超えてしまった男

光武帝こうぶてい(劉秀りゅうしゅう)

若いころの劉秀は、都で警備長官・執金吾しっきんごの華やかな行列を見て憧れ、また故郷で評判の美人・陰麗華いんれいかに想いを寄せていた。そこで口にしたのが「官に就くなら執金吾、妻をめとるなら陰麗華」という言葉。当時の本人にとっては精一杯の夢だったが、その後、陰麗華とはめでたく結婚し、官職のほうは執金吾どころか皇帝になって後漢を建ててしまった。

出典:『後漢書ごかんじょ』皇后紀光武帝のページを読む →この時代を年表で読む →

三国・晋

この時代は、名士たちの気の利いた言動を集めた『世説新語』のおかげで、おもしろ話の宝庫になっている。

219年史書

今夜の合言葉は「鶏のあばら骨」

曹操そうそう・楊修ようしゅう

漢中かんちゅうで劉備と戦っていた曹操は、進むことも守ることも難しくなり、ある日「鶏肋けいろく」とだけ命令を出した。部下は誰も意味がわからなかったが、楊修だけがさっさと帰り支度を始める。驚いて理由をたずねられると、「鶏のあばら骨は、捨てるには惜しいが食べるほどの肉もない。王はこれを漢中にたとえられた。つまり撤退なさるおつもりだ」と答えた。実際、曹操はまもなく軍を引き上げている。

「大して役に立たないが捨てるには惜しいもの」を鶏肋と呼ぶのはここから。小説『三国志演義』では、この先読みが楊修処刑のきっかけとして描かれる。

出典:『三国志』武帝紀の注に引く『九州春秋きゅうしゅうしゅんじゅう』曹操のページを読む →この時代を年表で読む →
後漢末逸話集

「この先に梅林があるぞ」で行軍を乗り切る

曹操

行軍中に水のある場所への道を見失い、兵士たちがのどの渇きに苦しんでいた。そこで曹操は「前方に大きな梅林がある。実がたくさんなっていて、甘酸っぱくて渇きをいやせるぞ」と触れを出す。聞いた兵士たちは思わず口の中につばがわき、そのおかげで水源のある場所までたどり着くことができた。梅林が本当にあったとは、どこにも書かれていない。

「梅を望んで渇きを止むうめをのぞんでかわきをとどむ」の故事。この話が収められているのは、人をあざむく話を集めた章である。

出典:『世説新語せせつしんご』仮譎かけつ篇曹操のページを読む →この時代を年表で読む →
217年逸話集

葬儀で参列者全員がロバの鳴きまね

曹丕そうひ・王粲おうさん

文人として名高い王粲は、ロバの鳴き声が大好きだった。王粲が亡くなって葬儀が行われたとき、弔問に訪れた曹丕(のちの魏の文帝)は、参列者を振り返ってこう提案した。「王粲はロバの鳴き声を好んでいた。みなで一声ずつ鳴いて、彼を送ってやろうではないか」。こうして弔問客たちは、一人ずつロバの鳴きまねをしたという。

格式ばった儀礼よりも故人の好みを大事にする、この時代らしい弔い方として伝えられる。

出典:『世説新語』傷逝しょうせい篇この時代を年表で読む →
三国時代(3世紀前半)史書

父の顔をロバにたとえられた息子の、二文字の反撃

孫権そんけん・諸葛瑾しょかつきん・諸葛恪しょかつかく

呉の重臣・諸葛瑾(諸葛亮の兄)は面長で、ロバに似た顔立ちだった。あるとき孫権は宴会の席に一頭のロバを引いてこさせ、その顔に「諸葛子瑜しゆ」(子瑜は瑾の字あざな)と書いた札を貼って、みなで笑った。すると、まだ少年だった息子の諸葛恪がひざまずいて「筆をお借りして二文字を書き加えさせてください」と願い出る。許されて書き足したのは「之驢」の二文字。札は「諸葛子瑜之驢(諸葛子瑜のロバ)」となり、一座は大笑い。孫権は感心して、そのロバを諸葛恪に与えた。

出典:『三国志』呉書・諸葛恪伝孫権のページを読む →この時代を年表で読む →
264年ごろ史書

「ここは楽しいので、蜀のことは思い出しません」

劉禅りゅうぜん・司馬昭しばしょう

蜀が滅び、洛陽に移された劉禅。宴席で蜀の音楽が演奏されると、旧臣たちはみな涙を流したが、劉禅だけはにこにこと楽しそうにしていた。司馬昭が「蜀が恋しくはありませんか」とたずねると、「ここは楽しいので、蜀のことは思い出しません」。見かねた旧臣の郤正げきせいが「次に聞かれたら、泣きながら『先祖の墓が蜀にあり、一日として思わぬ日はありません』と答え、目を閉じなさい」と教えた。後日また同じ質問をされた劉禅がその通りに答えると、司馬昭は「郤正の言葉にそっくりですな」。劉禅は驚いて目を開け、「まさにおっしゃる通りです」と答えたので、周りの者はみな笑った。

楽しさのあまり帰ることを忘れる意の「楽しみて蜀を思わずたのしみてしょくをおもわず(楽不思蜀)」の出典。

出典:『三国志』蜀書・後主伝の注に引く『漢晋春秋かんしんしゅんじゅう』劉禅のページを読む →この時代を年表で読む →
魏〜西晋(3世紀)逸話集

「なぜ君たちは私のふんどしの中に入ってくるのか」

劉伶りゅうれい(竹林の七賢ちくりんのしちけん)

竹林の七賢の一人で、大酒飲みとして知られる劉伶は、酔うと家の中で服を脱いで裸になっていた。それを見た人がとがめると、こう言い返した。「私は天地を家とし、この部屋を褌ふんどしとしている。諸君はなぜ、私の褌の中に入ってくるのかね」。

礼儀作法に縛られることを嫌った、この時代の知識人の気風をよく表す話として知られる。

出典:『世説新語』任誕にんたん篇この時代を年表で読む →
西晋(3世紀後半)逸話集

美男子をまねて街に出たら、つばを吐かれた

潘岳はんがく・左思さし

潘岳は、中国で美男子の代名詞になっているほどの容姿の持ち主だった。若いころ洛陽の街に出ると、女性たちが手をつないで取り囲み、車に果物を投げ入れるので、帰るころには車がいっぱいになったという。一方、名文家だが容貌には恵まれなかった左思が、これをまねて街をぶらついてみたところ、女性たちにいっせいにつばを吐きかけられ、ぐったりして帰ってきた。

ただし左思は、のちに書き上げた『三都賦さんとのふ』が大評判となり、書き写す人が殺到して紙の値段が上がった「洛陽の紙価を高めるらくようのしかをたかめる」の故事の主である。

出典:『世説新語』容止ようし篇、『晋書しんじょ』潘岳伝この時代を年表で読む →
西晋(3世紀末)史書

「穀物がないなら、肉のおかゆを食べればいいのに」

西晋の恵帝けいてい(司馬衷しばちゅう)

天下が乱れ、飢饉で多くの民が餓死していると聞いた恵帝は、不思議そうに「どうして肉糜にくび(肉入りのおかゆ)を食べないのか」と言ったという。また、庭園でカエルの鳴き声を聞いたときには、側近に「あれは官おおやけのために鳴いているのか、それとも私わたくしのために鳴いているのか」とたずねている。

「パンがなければお菓子を」の中国版としてよく引かれる。この皇帝のもとで八王の乱はちおうのらんが起こり、西晋は急速に傾いていった。

出典:『晋書』恵帝紀この時代を年表で読む →
西晋(3世紀後半)逸話集

皇帝にもらった珊瑚を叩き割られる、大富豪の意地の張り合い

石崇せきすう・王愷おうがい

西晋を代表する大富豪の石崇と、皇帝の外戚がいせきである王愷は、何かにつけて贅沢を競い合った。王愷が飴あめで釜を洗わせれば、石崇は蝋燭ろうそくを薪たきぎの代わりに燃やす、という具合である。あるとき王愷は、武帝から贈られた高さ二尺ほどのみごとな珊瑚さんごの樹を石崇に自慢した。石崇はそれを眺めると、手にしていた鉄の如意にょいでいきなり叩き割ってしまう。色をなして怒る王愷に「惜しむほどのことではない、すぐお返しする」と言って家の者に持ってこさせたのは、三尺、四尺もある珊瑚の樹が六、七本。王愷はがっくりと肩を落とした。

出典:『世説新語』汰侈たいし篇この時代を年表で読む →
東晋(4世紀前半)逸話集

婿選びの使者が来たのに、腹を出して寝転がっていた青年

王羲之おうぎし

重臣の郗鑒ちかんが、名門・王氏の一族から娘の婿を選ぼうと使者を送った。それを聞いた王家の若者たちはみな身なりを整え、取りすまして待っていたが、一人だけ東側の寝台で腹を出して寝転がり、まるで何も聞いていないかのように振る舞っている者がいた。報告を受けた郗鑒は「その男こそがよい」と即決する。調べてみると、それがのちに「書聖」と呼ばれる王羲之だった。

娘婿のことを「東床とうしょう」と呼ぶのは、この故事にちなむ。

出典:『世説新語』雅量がりょう篇この時代を年表で読む →

唐・宋

詩人や文人が主役の時代。当代一流の教養人たちの、どこかずれた日常が随筆に書き留められている。

唐・武則天ぶそくてんの時代(7世紀末)史書

「顔につばを吐かれたら、拭かずに乾くのを待て」

婁師徳ろうしとく

宰相の婁師徳は、がまん強さで知られた人物。弟が地方長官として赴任することになったとき、「兄弟そろって出世すれば人にねたまれる。どうやって身を守るつもりか」とたずねた。弟が「これからは、顔につばを吐かれても黙って拭くだけにします」と答えると、婁師徳は首を振った。「それではだめだ。拭けば、相手の怒りに逆らうことになる。拭かずに、自然に乾くのを待ちなさい」。

「唾面自乾だめんじかん」の故事。政争の激しかった武則天の時代を生き抜いた処世術である。

出典:『新唐書しんとうじょ』婁師徳伝この時代を年表で読む →
唐(9世紀前半)伝説

一文字に悩みすぎて、長官の行列に突っ込む

賈島かとう・韓愈かんゆ

詩人の賈島は、ロバに乗りながら「僧は推おす月下の門」という句を思いついた。しかし「推す」を「敲たたく」にしたほうがよい気もする。ロバの上で門を押すしぐさ、叩くしぐさを繰り返して夢中になっているうちに、都の長官だった韓愈の行列に突っ込んでしまった。引き出された賈島が事情を話すと、当代きっての文章家でもある韓愈はしばらく考えて「敲くのほうがよい」と答え、二人はそのまま馬を並べて詩を論じ合ったという。

文章を何度も練り直す「推敲すいこう」の語源。後世の逸話集に見える話で、事実かどうかは確かではない。

出典:『唐詩紀事とうしきじ』などこの時代を年表で読む →
北宋(11世紀)逸話集

「顔色が悪い」と心配されたが、ただの垢あかだった

王安石おうあんせき

大改革「新法」で知られる宰相・王安石は、身なりにまったく構わない人だった。あるとき顔が黒ずんでいるのを門人たちが心配して医者に診せたところ、診断は「これは垢です。病気ではありません」。そこで洗顔用の澡豆そうずをすすめられたが、王安石は「天が私を黒く生んだのだ。澡豆ごときに何ができよう」と言って取り合わなかった。

記録した沈括は王安石の新法に協力した同時代人で、『夢渓筆談』は活字印刷や羅針盤の記述でも知られる。

出典:沈括しんかつ『夢渓筆談むけいひつだん』王安石のページを読む →この時代を年表で読む →
北宋(11世紀末〜12世紀初)史書

珍しい岩に正装でおじぎをして「兄上」と呼ぶ

米芾べいふつ

北宋を代表する書家・画家の米芾は、大の奇石マニアだった。地方官として赴任した先の役所に、ひどく奇怪な形をした巨石があるのを見つけると大喜びし、「これは私が拝礼するに値する」と言って、わざわざ正装に着替えてうやうやしくおじぎをし、その石を「兄」と呼んだという。極度のきれい好きでも知られ、変わった言動の数々から「米顛べいてん(変わり者の米)」とあだ名された。

出典:『宋史そうし』米芾伝この時代を年表で読む →
北宋(11世紀後半)逸話集

友人の恐妻ぶりを詩にして、千年先まで残してしまう

蘇軾そしょく・陳慥ちんぞう

蘇軾の友人・陳慥は、客を招いては夜通し仏教談義をするのが好きだった。ところが妻の柳氏は、たいへん嫉妬深く気性の激しい人だったと伝わる。蘇軾はこれを詩にして、「ふいに河東かとうの獅子の吼ほえる声を聞けば、杖は手から落ち、心は茫然ぼうぜん」とからかった。河東は柳氏一族ゆかりの地名、獅子吼は仏の説法の威厳をたとえる仏教語で、仏教好きの陳慥にかけた洒落になっている。

以来、中国語では恐妻家の妻が怒鳴ることを「河東獅吼かとうしく」と言うようになった。

出典:蘇軾の詩、洪邁こうまい『容斎随筆ようさいずいひつ』この時代を年表で読む →

明・清

記録が豊富に残る時代。皇帝たちの個性的すぎる趣味が、公式の史書や現存する文物から確かめられる。

1517〜1518年史書

自分で自分を大将軍に任命し、自分に給料を払う皇帝

明の正徳帝せいとくてい(武宗ぶそう)

遊び好きで知られる正徳帝は、軍を率いて戦うことに憧れていた。しかし皇帝がみずから前線に出ることには、臣下たちが猛反対する。そこで思いついたのが、「朱寿しゅじゅ」という架空の人物を作り、その朱寿を「総督軍務威武大将軍総兵官」に任命することだった。もちろん朱寿の正体は皇帝本人である。翌年には朱寿の功績をたたえて「鎮国公」の爵位と年五千石の俸禄まで与えた。皇帝が、自分の家来として自分に褒美を出したことになる。

臣下たちは「皇帝が臣下の位に下るなど前代未聞」と必死に諫めたが、聞き入れられなかった。

出典:『明史みんし』武宗本紀この時代を年表で読む →
1620年代史書

政治より大工仕事。「もうわかった、よきにはからえ」

明の天啓帝てんけいてい(熹宗きそう)・魏忠賢ぎちゅうけん

天啓帝は手先が器用で、のこぎりや斧を手に木工や漆塗りに打ち込むのが何よりの楽しみだった。宦官の魏忠賢は、皇帝が作業に夢中になっている頃合いをわざと見計らって政務の報告に行く。すると皇帝はうるさがって「もう全部わかっている。お前たちでうまくやっておけ」と答えるのだった。こうして魏忠賢は思うままに権力をふるうようになる。

笑い話のようだが、結果は深刻で、魏忠賢の専横は明の衰退を決定的にした一因とされる。

出典:『明史』魏忠賢伝この時代を年表で読む →
17世紀末〜18世紀前半史書

臣下の報告書に書き込まれた、皇帝の率直すぎる返事

清の康熙帝こうきてい・雍正帝ようせいてい

清の皇帝は、地方官から届く報告書に朱色の筆で直接返事を書き込んだ。その実物が大量に残っており、皇帝の肉声が読める。康熙帝がもっとも多く書いたのは、そっけない一言「知道了」(わかった)。一方、一日に何十通もの報告書に長文の返事を書いた仕事中毒の雍正帝は、臣下に向かって「朕ちんはこういう男だ、こういう性分だ、こういう皇帝なのだ」と書き送ったことで知られる。

「知道了」は現代中国語でもそのまま通じる言い回しで、台湾の国立故宮博物院ではこの文字を入れたグッズが人気商品になった。

出典:現存する硃批奏摺しゅひそうしょう(皇帝が朱筆で返事を書き込んだ報告書)この時代を年表で読む →
18世紀史書

生涯に詩を4万首以上。名画には感想を書き込みまくる

清の乾隆帝けんりゅうてい

乾隆帝は生涯に4万首を超える詩を残した。唐代の詩を網羅した『全唐詩ぜんとうし』に収められた詩が、詩人二千人以上を合わせて約4万9千首だから、ほぼ一人で一王朝ぶんに迫る量である。ただし、名作として愛唱されている詩はほとんどない。また書画の収集にも熱心で、気に入った名品には自分の印章を次々と押し、余白に感想や詩を書き込んだ。元代の名画『富春山居図ふしゅんさんきょず』では、手に入れた二本のうち模本のほうを本物と信じ込み、そちらに何十回も書き込みを重ねた。おかげで本物のほうは、ほとんど書き込みをされずに済んでいる。

鑑定を誤ったおかげで名画が守られた、という皮肉な結末。乾隆帝の印章と書き込みは、現在でも作品の来歴を知る手がかりになっている。

出典:『御製詩集ぎょせいししゅう』、現存する書画この時代を年表で読む →

「宋襄の仁」「鶏肋」「推敲」のように、ここで紹介した話の多くは故事成語として今も使われています。故事成語の一覧や、登場人物・時代の全体像もあわせてどうぞ。