「中国五千年史」- 新石器時代から現代まで、王朝・人物・出来事をスクロールして辿る
「中国」の範囲は、時代によって大きく変わってきました。黄河中流域の小さな王朝から始まり、秦・漢で中国本土の原型ができ、唐や元、清の時代には中央アジアやモンゴル高原にまで広がります。 ここでは殷から清まで16の時点を選び、各王朝と周辺勢力の版図の移り変わりを地図でたどります。
再生ボタンで時代が順に切り替わります。下の王朝名のボタンで、見たい時代へ直接移動することもできます。 朱色が各時代の中国の王朝、点線は現在の中国の範囲です。 版図は勢力範囲の目安として大まかに描いたもので、国境を厳密に示すものではありません(名目的な支配や時期による増減には諸説があります)。
考古学的に存在が確かめられる最古の王朝。後期の都・殷墟(安陽)を中心に、黄河中・下流域の平原に勢力を張った。直接支配が及んだのは今の河南・河北南部・山東西部あたりで、周囲には「方」と呼ばれる諸族が割拠していた。
秦・漢、隋・唐、元・清のような統一王朝の最盛期には版図が大きく外へ広がる一方、三国・南北朝・五代十国・宋金のような分裂期には、中国本土そのものが複数の政権に分かれた。漢・唐の西域や唐の都護府のように、最盛期の外縁部は現地の首長を通じたゆるやかな支配であることも多い。
匈奴・鮮卑・突厥・モンゴルなど、モンゴル高原の遊牧勢力との力関係が、歴代王朝の北の国境を左右し続けた。長城が築かれた位置は、おおむね農耕地帯と草原の境目にあたる。遼・金・元・清のように、北方から中国本土へ入って王朝を建てた例も多い。
元はモンゴル帝国の一部として、中国本土にモンゴル高原・満洲・チベットを加えた広大な領域を直轄した。清は乾隆帝の時代に新疆を併合して最大版図に達し、この範囲が現在の中国の国境の基礎になっている。唐も7世紀後半には都護府を通じて中央アジアにまで勢力を及ぼしたが、その期間は比較的短かった。
考古学的に存在が確かめられる最古の王朝。後期の都・殷墟(安陽)を中心に、黄河中・下流域の平原に勢力を張った。直接支配が及んだのは今の河南・河北南部・山東西部あたりで、周囲には「方」と呼ばれる諸族が割拠していた。
殷を倒した周は、渭水盆地の鎬京を都とし、一族や功臣を各地に封じる封建制で支配を広げた。燕(北京付近)や斉・魯(山東)、漢水流域まで諸侯が置かれ、殷の時代より勢力圏は大きく西と南へ広がった。
周王の権威が失われると、諸侯は互いに併合を重ねて戦国七雄に収斂した。秦は巴蜀を、楚は長江中・下流域を、燕は遼東を手に入れ、趙・燕・秦は北辺に長城を築いた。「中国」の範囲は春秋時代よりひとまわり大きくなる。七雄の争いの細かな推移は春秋・戦国の合戦ページで見られる。
前221年に六国を滅ぼした始皇帝は、さらに蒙恬に匈奴を討たせてオルドス(黄河の湾曲部の内側)を奪い、南では嶺南(今の広東・広西)に南海・桂林・象の三郡を置いた。北辺には各国の長城をつなぎ合わせた「万里の長城」が築かれ、ここに中国本土の原型がほぼ形づくられた。
武帝は衛青・霍去病に匈奴を討たせて河西回廊を奪い、敦煌までの四郡を置いた。東では衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡などを、南では南越を滅ぼして今のベトナム中部までを郡県とする。前60年には西域都護が置かれ、タリム盆地のオアシス諸国も漢に服属した。
光武帝が再興した後漢は洛陽を都とした。班超の活躍で西域都護府が再建され、91年には北匈奴が西方へ追われる。匈奴に代わってモンゴル高原では鮮卑が台頭し、2世紀後半には後漢の北辺を脅かすようになった。
後漢の崩壊後、華北を制した魏、長江以南を押さえた呉、四川盆地に拠った蜀(蜀漢)が並び立った。国力では人口の多い華北を持つ魏が圧倒しており、呉は江南と交州(ベトナム北部)の開発、蜀は南中(雲南)への進出で対抗した。
魏を簒奪した司馬炎の晋は、263年に蜀を、280年に呉を滅ぼして約90年ぶりに天下を統一した。しかし八王の乱で国内は乱れ、匈奴・鮮卑など「五胡」の自立を招いて316年に滅亡、華北は五胡十六国の分裂時代へ入る。
鮮卑の拓跋氏が建てた北魏は、439年に北涼を滅ぼして華北を統一した。江南では東晋に代わった宋(劉宋)が淮河の線で北魏と向き合う。北には柔然、西には吐谷渾、東北には高句麗が勢力を張った。
589年に陳を滅ぼして約270年ぶりに南北を統一した隋は、煬帝の時代に吐谷渾を破って青海からタリム盆地東部にまで郡を置いた。大運河で華北と江南を結んだ一方、高句麗遠征の失敗で国力を使い果たし、わずか38年で滅びる。
太宗・高宗の時代、唐は東突厥・西突厥を破り、668年には高句麗も滅ぼした。征服地には安西・安北・安東などの都護府を置き、現地の首長に自治を認める羈縻政策で、中央アジアからモンゴル高原、朝鮮半島北部に及ぶ空前の勢力圏を築いた。ただし同じ頃に吐蕃が青海を奪い、8世紀半ばの安史の乱以後は勢力圏が大きく縮む。
五代十国の分裂を収めた宋は、燕雲十六州(北京・大同一帯)を契丹の遼に握られたままで、1004年の澶淵の盟では遼に毎年銀・絹を贈ることを約した。西北にはチベット系タングートの西夏、雲南には大理国があり、宋の版図は漢・唐に比べて格段に小さい。それでも経済・文化は大いに栄えた。
女真の金は遼を滅ぼし、1127年の靖康の変で北宋の都開封も落とした。江南に逃れた高宗の南宋は、1142年の紹興の和議で淮河から大散関を結ぶ線を国境とし、金に臣下の礼をとった。華北を失っても、南宋は江南の豊かな経済力で約150年を保つ。
モンゴル帝国の第5代大ハンクビライは国号を「大元」とし、1279年に南宋を滅ぼした。元の直轄地は中国本土に加えてモンゴル高原・満洲・チベット(宣政院の管轄)・雲南に及び、高麗も属国とした。西のチャガタイ・ハン国などとはゆるやかな連合関係にあり、ユーラシアの東西交流がかつてなく盛んになった。
元を北へ追った明は、永楽帝の時代にモンゴル高原へ親征し、満洲にも奴児干都司を置いたが、実効支配はおおむね長城の内側と遼東にとどまった。北にはモンゴル(タタール・オイラト)が健在で、明は長城を現在見られる堅固な磚造りに改修して守りを固めた。女真は明の衛所の名目で統御されたが、16世紀末からヌルハチのもとで統合が進む。
満洲人の清は1644年に北京へ入り、康熙帝・雍正帝・乾隆帝の三代で台湾・モンゴル・チベットを勢力下に収め、1759年にジュンガルを滅ぼして新疆を併合した。こうして成立した版図が、現在の中国の国境の基礎になっている。ただし19世紀後半には外満洲(沿海州など)をロシアに割譲し、1912年の清の滅亡後には外モンゴルが独立へ向かった。
戦国七雄・三国・隋唐の各時代については、勢力図がより細かく移り変わる様子を合戦マップのページで見ることができます。 歴代王朝が都を置いた場所は「歴代王朝の都一覧」で紹介しています。