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春秋・戦国時代 合戦マップ

紀元前770年の周の東遷から、紀元前221年の秦による中国統一まで——550年におよぶ春秋・戦国時代は、 数十の国が興亡を繰り返した中国史上もっとも長い分裂の時代です。このページでは前半の「春秋時代」と 後半の「戦国時代」に分けて、代表的な合戦とそこで活躍した武将たちを地図とともに紹介します。

前770 – 前403

春秋時代の合戦

周王室の権威が形だけのものとなり、斉・晋・楚・呉・越など有力諸侯が「覇者」を称して天下に号令した時代。

時代の流れ

合戦地図

実際の海岸線をもとにした位置関係図です。朱色の番号は下の各合戦の位置を示しています。

晋斉楚呉・越12345

主要な戦い

1繻葛じゅかつの戦い前707年
河南省長葛市付近
周王室軍:周桓王しゅうかんおう
鄭軍:鄭荘公ていそうこう・祝聃しゅくたん

周王室の権威回復を図る桓王かんおうは、自ら軍を率いて有力諸侯鄭ていの荘公そうこうを討とうとしたが、逆に大敗を喫し、桓王自身も家臣祝聃しゅくたんの放った矢を肩に受けて負傷したと伝えられる。天下の宗主であるはずの周王が一諸侯に武力で打ち負かされたこの一戦は周王室の権威が完全に形骸化したことを天下に知らしめ、以後は実力を背景とした「覇者」が秩序を主導する春秋時代の力学を決定づけた。

2城濮じょうぼくの戦い前632年
山東省鄄城県付近
晋軍:晋文公しんぶんこう(重耳ちょうじ)・先軫せんしん
楚軍:子玉しぎょく

19年に及ぶ亡命生活の末に即位した晋文公しんぶんこうは、南方の大国楚そと中原の覇権を争った。開戦にあたり、かつて楚に世話になった恩義から自軍を三舎(90里)後退させる「退避三舎たいひさんしゃ」を実行しつつ、油断した楚将子玉しぎょくの軍を巧みな伏兵戦術で打ち破る。この勝利により晋文公は斉桓公に続く新たな覇者としての地位を不動のものとした。

3邲ひつの戦い前597年
河南省滎陽市付近
楚軍:楚荘王そそうおう
晋軍:荀林父じゅんりんぷ

即位当初は遊興にふけって「三年鳴かず飛ばず」と評された楚荘王そそうおうであったが、実は臣下の器量を見極めていたに過ぎず、いざ親政を始めると瞬く間に国力を充実させた。晋との激突となった邲の戦いでは、指揮系統の乱れた晋軍を打ち破り黄河への敗走に追い込む大勝を収め、この勝利により荘王は「春秋五覇」の一人に数えられる新たな覇者としての地位を確立した。

4鄢陵えんりょうの戦い前575年
河南省鄢陵県付近
晋軍:晋厲公しんれいこう・欒書らんしょ
楚軍:楚共王そきょうおう

邲の戦いで晋を破り覇権を握った楚であったが、その勢いも長くは続かなかった。鄢陵の戦いで晋軍は楚の共王きょうおうを矢で負傷させるほどの猛攻を見せて大勝し、楚の北進を食い止めることに成功する。この敗戦を機に楚の中原への影響力は後退し、以後しばらく晋が中原諸侯に対する主導権を握り続けることになった。

5呉越ごえつの攻防(臥薪嘗胆がしんしょうたん)前494〜前473年
会稽(浙江省紹興市)〜姑蘇(江蘇省蘇州市)
呉軍:夫差ふさ
越軍:勾践こうせん・范蠡はんれい

会稽山で呉に大敗し屈辱的な講和を強いられた越王勾践こうせんは、苦い肝を嘗めて雪辱を誓う「臥薪嘗胆がしんしょうたん」の日々を送りながら、名臣范蠡はんれいらの補佐のもと国力の回復に努めた。二十年近くの雌伏を経てついに反撃に転じた越は、驕り高ぶった呉王夫差ふさの軍を各地で撃破し、最終的に呉の都姑蘇こそを陥落させて呉を滅ぼす。勾践はその後、中原にまでその名を知られる最後の「春秋の覇者」となった。

前403 – 前221

戦国時代の合戦

晋の分裂を経て、秦・楚・斉・燕・韓・魏・趙の「戦国七雄」が生き残りをかけて争った、より苛烈な弱肉強食の時代。

時代の流れ

合戦地図

実際の海岸線をもとにした位置関係図です。朱色の番号は下の各合戦の位置を示しています。

秦楚斉燕123456

主要な戦い

1桂陵けいりょう・馬陵ばりょうの戦い前353・前341年
桂陵・馬陵(いずれも山東省菏沢市付近)
斉軍:孫臏そんぴん・田忌でんき
魏軍:龐涓ほうけん

かつて同門で学んだ孫臏そんぴんと龐涓ほうけんは、龐涓の讒言により孫臏が両足を切断される刑を受けたことで宿敵となった。斉に亡命した孫臏は、趙を攻める魏の背後を突いて自国を救う「囲魏救趙いぎきゅうちょう」の策で桂陵の戦いに勝利する。さらに十年余り後の馬陵の戦いでは、退却と見せかけて日ごとに野営のかまどの数を減らし敵を油断させる「減竈之計げんそうのけい」で龐涓をおびき寄せて大破し、窮地に陥った龐涓は自害した。孫臏はこの二戦により兵法家として不朽の名声を得ている。

2伊闕いけつの戦い前293年
河南省洛陽市南郊(伊闕)
秦軍:白起はくき
韓魏連合軍:公孫喜こうそんき

台頭著しい秦に対し、韓・魏は連合軍24万を組んでこれを迎え撃ったが、秦の若き将軍白起はくきは寡兵ながら各個撃破の戦術で連合軍を翻弄し、司令官公孫喜こうそんきを捕らえて連合軍を事実上全滅させる大勝利を収めた。この一戦で白起は一躍秦軍随一の名将としての名声を確立し、以後の数十年にわたり東方六国を震撼させ続けることになる。

3鄢郢えんえいの戦い前278年
湖北省荊州市(郢えい)
秦軍:白起はくき
楚軍:楚頃襄王そけいじょうおう

伊闕の戦いで名を上げた白起はさらに南下し、楚の都郢えい(現在の湖北省荊州)を水攻めも用いて攻略した。都を追われた楚は東方への遷都を余儀なくされ、大国としての勢いに深刻な打撃を受ける。この報に絶望した楚の詩人屈原くつげんは汨羅の淵に身を投げて命を絶ったと伝えられ、この故事が後の端午節たんごせつ(ちまきを供える風習)の起源になったとされる。

4長平ちょうへいの戦い前260年
山西省高平市付近
秦軍:白起はくき
趙軍:趙括ちょうかつ

持久戦を貫いていた趙の名将廉頗れんぱが更迭され、実戦経験に乏しい趙括ちょうかつに指揮が交代したところを、秦の白起はくきに完全包囲されて趙軍40万は降伏に追い込まれた。白起は降伏兵の反乱を恐れてその大半を生き埋めにしたと伝えられ、戦国時代を通じて最大規模の犠牲を出した戦いとして知られる。この敗北で趙は再起不能なほどの国力を失い、秦による天下統一への流れは決定的なものとなった。

5邯鄲かんたんの戦い(窃符救趙せっぷきゅうちょう)前257年
河北省邯鄲市
魏・楚救援軍:信陵君しんりょうくん
秦軍:邯鄲包囲軍

長平の勝利に乗じた秦軍は趙の都邯鄲かんたんを包囲し、趙は滅亡の淵に立たされた。魏の公子信陵君しんりょうくんは同盟国の危機を見過ごせず、王の寵姫の手を借りて軍権を示す割符を盗み出し、独断で魏の援軍を動かして秦軍を撃退した「窃符救趙せっぷきゅうちょう」の故事で知られる。この決断は主命に背く重大な越権行為であったが、結果的に趙を滅亡から救い、信陵君は「戦国四公子せんごくのよんこうし」の一人として侠気ある名声を後世に残した。

始皇帝
6秦滅六国・戦国の終結前230〜前221年
山東省淄博市(斉の都・臨淄りんし)ほか
秦軍:秦王政しんおうせい(始皇帝しこうてい)・王翦おうせん
六国:韓・趙・魏・楚・燕・斉

長平の戦いから半世紀、秦王政せいはわずか10年ほどの間に韓・趙・魏・楚・燕を次々と滅ぼした。この過程では、燕の太子丹たんが刺客荊軻けいかを放って秦王暗殺を図るも失敗する「荊軻刺秦王けいかしんおうをさす」の事件も起きている。最後まで独立を保っていた東方の大国斉せいも無血開城で降伏し、紀元前221年、秦王政は中国史上初めて全土を統一して「始皇帝しこうてい」を名乗った。550年に及んだ春秋戦国の分裂の時代はここに終わりを告げる。

19世紀の画(1609年の肖像の写し) / Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

戦国の統一以後、秦の滅亡から漢の統一までの「楚漢戦争」、そして400年後の「三国時代」の合戦については、 あわせて下記の特集ページもご覧ください。