紀元前770年の周の東遷から、紀元前221年の秦による中国統一まで——550年におよぶ春秋・戦国時代は、 数十の国が興亡を繰り返した中国史上もっとも長い分裂の時代です。このページでは前半の「春秋時代」と 後半の「戦国時代」に分けて、代表的な合戦とそこで活躍した武将たちを地図とともに紹介します。
周王室の権威が形だけのものとなり、斉・晋・楚・呉・越など有力諸侯が「覇者」を称して天下に号令した時代。
実際の海岸線をもとにした位置関係図です。朱色の番号は下の各合戦の位置を示しています。
周王室の権威回復を図る桓王は、自ら軍を率いて有力諸侯鄭の荘公を討とうとしたが、逆に大敗を喫し、桓王自身も家臣祝聃の放った矢を肩に受けて負傷したと伝えられる。天下の宗主であるはずの周王が一諸侯に武力で打ち負かされたこの一戦は周王室の権威が完全に形骸化したことを天下に知らしめ、以後は実力を背景とした「覇者」が秩序を主導する春秋時代の力学を決定づけた。
19年に及ぶ亡命生活の末に即位した晋文公は、南方の大国楚と中原の覇権を争った。開戦にあたり、かつて楚に世話になった恩義から自軍を三舎(90里)後退させる「退避三舎」を実行しつつ、油断した楚将子玉の軍を巧みな伏兵戦術で打ち破る。この勝利により晋文公は斉桓公に続く新たな覇者としての地位を不動のものとした。
即位当初は遊興にふけって「三年鳴かず飛ばず」と評された楚荘王であったが、実は臣下の器量を見極めていたに過ぎず、いざ親政を始めると瞬く間に国力を充実させた。晋との激突となった邲の戦いでは、指揮系統の乱れた晋軍を打ち破り黄河への敗走に追い込む大勝を収め、この勝利により荘王は「春秋五覇」の一人に数えられる新たな覇者としての地位を確立した。
邲の戦いで晋を破り覇権を握った楚であったが、その勢いも長くは続かなかった。鄢陵の戦いで晋軍は楚の共王を矢で負傷させるほどの猛攻を見せて大勝し、楚の北進を食い止めることに成功する。この敗戦を機に楚の中原への影響力は後退し、以後しばらく晋が中原諸侯に対する主導権を握り続けることになった。
会稽山で呉に大敗し屈辱的な講和を強いられた越王勾践は、苦い肝を嘗めて雪辱を誓う「臥薪嘗胆」の日々を送りながら、名臣范蠡らの補佐のもと国力の回復に努めた。二十年近くの雌伏を経てついに反撃に転じた越は、驕り高ぶった呉王夫差の軍を各地で撃破し、最終的に呉の都姑蘇を陥落させて呉を滅ぼす。勾践はその後、中原にまでその名を知られる最後の「春秋の覇者」となった。
晋の分裂を経て、秦・楚・斉・燕・韓・魏・趙の「戦国七雄」が生き残りをかけて争った、より苛烈な弱肉強食の時代。
実際の海岸線をもとにした位置関係図です。朱色の番号は下の各合戦の位置を示しています。
かつて同門で学んだ孫臏と龐涓は、龐涓の讒言により孫臏が両足を切断される刑を受けたことで宿敵となった。斉に亡命した孫臏は、趙を攻める魏の背後を突いて自国を救う「囲魏救趙」の策で桂陵の戦いに勝利する。さらに十年余り後の馬陵の戦いでは、退却と見せかけて日ごとに野営のかまどの数を減らし敵を油断させる「減竈之計」で龐涓をおびき寄せて大破し、窮地に陥った龐涓は自害した。孫臏はこの二戦により兵法家として不朽の名声を得ている。
台頭著しい秦に対し、韓・魏は連合軍24万を組んでこれを迎え撃ったが、秦の若き将軍白起は寡兵ながら各個撃破の戦術で連合軍を翻弄し、司令官公孫喜を捕らえて連合軍を事実上全滅させる大勝利を収めた。この一戦で白起は一躍秦軍随一の名将としての名声を確立し、以後の数十年にわたり東方六国を震撼させ続けることになる。
伊闕の戦いで名を上げた白起はさらに南下し、楚の都郢(現在の湖北省荊州)を水攻めも用いて攻略した。都を追われた楚は東方への遷都を余儀なくされ、大国としての勢いに深刻な打撃を受ける。この報に絶望した楚の詩人屈原は汨羅の淵に身を投げて命を絶ったと伝えられ、この故事が後の端午節(ちまきを供える風習)の起源になったとされる。
持久戦を貫いていた趙の名将廉頗が更迭され、実戦経験に乏しい趙括に指揮が交代したところを、秦の白起に完全包囲されて趙軍40万は降伏に追い込まれた。白起は降伏兵の反乱を恐れてその大半を生き埋めにしたと伝えられ、戦国時代を通じて最大規模の犠牲を出した戦いとして知られる。この敗北で趙は再起不能なほどの国力を失い、秦による天下統一への流れは決定的なものとなった。
長平の勝利に乗じた秦軍は趙の都邯鄲を包囲し、趙は滅亡の淵に立たされた。魏の公子信陵君は同盟国の危機を見過ごせず、王の寵姫の手を借りて軍権を示す割符を盗み出し、独断で魏の援軍を動かして秦軍を撃退した「窃符救趙」の故事で知られる。この決断は主命に背く重大な越権行為であったが、結果的に趙を滅亡から救い、信陵君は「戦国四公子」の一人として侠気ある名声を後世に残した。
長平の戦いから半世紀、秦王政はわずか10年ほどの間に韓・趙・魏・楚・燕を次々と滅ぼした。この過程では、燕の太子丹が刺客荊軻を放って秦王暗殺を図るも失敗する「荊軻刺秦王」の事件も起きている。最後まで独立を保っていた東方の大国斉も無血開城で降伏し、紀元前221年、秦王政は中国史上初めて全土を統一して「始皇帝」を名乗った。550年に及んだ春秋戦国の分裂の時代はここに終わりを告げる。
戦国の統一以後、秦の滅亡から漢の統一までの「楚漢戦争」、そして400年後の「三国時代」の合戦については、 あわせて下記の特集ページもご覧ください。