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楚漢戦争 合戦マップ

209年の陳勝・呉広の乱に始まり、202年の垓下の戦いで幕を閉じるまで——秦の滅亡から漢の統一までのわずか数年間は、 項羽と劉邦という対照的な二人の英雄が天下を賭けて戦った、中国史でも屈指の劇的な時代です。 このページでは、鉅鹿・鴻門・彭城・垓下など8つの主要な合戦と、そこで活躍した武将たちにスポットを当てて詳しく紹介します。

時代の流れ

合戦地図

実際の海岸線をもとにした位置関係図です。朱色の番号は下の各合戦の位置を示しています。

漢(劉邦の勢力基盤)楚(項羽の本拠地)12345678

主要な戦い

1大澤郷だいたくきょうの蜂起(陳勝ちんしょう・呉広ごこうの乱)209 BC
安徽省宿州市(大澤郷)
反乱軍:陳勝ちんしょう・呉広ごこう
秦軍:地方の郡県守備隊

辺境警備に向かう途上、大雨で期日に遅れ処刑される運命に直面した農民陳勝ちんしょうと呉広ごこうは、「王侯将相いずくんぞ種あらんや」の言葉とともに蜂起した。反乱は瞬く間に華北一帯へ広がり、陳勝は自ら「張楚ちょうそ」を名乗って独立政権を樹立するまでに至る。蜂起そのものは半年ほどで鎮圧されたが、これに触発されて項羽こうう・劉邦りゅうほうをはじめ各地の反秦勢力が次々と挙兵し、秦崩壊への流れを決定づけることになった。

項羽
2鉅鹿きょろくの戦い207 BC
河北省邢台市鉅鹿県付近
反秦諸侯連合軍:項羽こうう
秦軍:章邯しょうかん・王離おうり

秦の主力軍に包囲された鉅鹿きょろくの反秦勢力を救援するため、項羽こううは自ら軍を率いて渡河すると、乗ってきた船を沈め、炊事用の釜を破壊して兵に退路を断たせ、決死の覚悟で戦わせた。この「破釜沈舟はふちんしゅう」の奇策により項羽軍は九度にわたる激戦のすべてに勝利し、秦の主力軍を壊滅させる。観戦していた諸侯の軍勢はその勇猛さに恐れをなし戦わずして降ったと伝えられ、この勝利により項羽は反秦諸侯連合の中心的指導者としての地位を確立した。

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劉邦
3秦の滅亡・鴻門こうもんの会206 BC
陝西省西安市臨潼区
劉邦陣営:劉邦りゅうほう・張良ちょうりょう・樊噲はんかい
項羽陣営:項羽こうう・范増はんぞう

諸侯連合が鉅鹿で秦の主力を退ける間に、劉邦りゅうほうは別動隊を率いて先に秦の都咸陽かんようへ入城していた。遅れて到着した項羽こううはこれに激怒し、鴻門の酒宴に劉邦を招く。参謀范増はんぞうは剣舞に見せかけて暗殺を図るが、劉邦配下の樊噲はんかいが剣と盾を手に強引に宴席へ乱入して睨みを利かせ、劉邦は隙をついて脱出に成功したと伝えられる。この「鴻門の会」を経て項羽は諸侯に領土を分け与え自ら「西楚覇王せいそはおう」を称するが、論功行賞への不満はまもなく楚漢戦争の火種となっていく。

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劉邦
4陳倉ちんそうの戦い206 BC
陝西省宝鶏市
漢軍:劉邦りゅうほう・韓信かんしん
雍王軍:章邯しょうかん

鴻門の会の後、辺境の漢中かんちゅうに追いやられた劉邦りゅうほうは、大将軍に抜擢した韓信かんしんの献策により関中奪還に動く。表向きは山中の桟道を修復すると見せかけて敵の目を引きつけ、その裏で別働隊がひそかに陳倉ちんそうの間道を踏破するという「明修桟道めいしゅうさんどう、暗渡陳倉あんとちんそう」の奇策により、関中を守っていた元秦将章邯しょうかんの軍を撃破した。これにより劉邦は関中の地盤を取り戻し、項羽との本格的な覇権争い「楚漢戦争」の幕が切って落とされることになる。

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項羽
5彭城ほうじょうの戦い205 BC
江蘇省徐州市
楚軍:項羽こうう
漢連合軍:劉邦りゅうほう

項羽が斉の反乱鎮圧に出た隙をつき、劉邦りゅうほうは諸侯を糾合した56万ともいわれる大軍で楚の都彭城ほうじょうを陥落させた。しかし急報を受けた項羽はわずか3万の精鋭騎兵のみを率いて取って返すと、油断していた漢軍を明け方に奇襲し、たちまち総崩れに追い込んだ。逃げ惑う漢兵の多くが睢水すいすいに追い落とされて溺死したと伝えられ、劉邦自身もわずかな供回りとともに辛くも脱出する有様であった。数の上では圧倒的だった漢連合軍が、機動力に優れた項羽の精鋭にあっけなく打ち破られた、楚漢戦争屈指の逆転劇である。

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6井陘せいけいの戦い(背水はいすいの陣)204 BC
河北省石家荘市井陘県付近
漢軍:韓信かんしん・張耳ちょうじ
趙軍:陳余ちんよ

劉邦の別働隊を率いる韓信かんしんは、寡兵で趙の大軍を打ち破るため、あえて川を背にして陣を敷くという兵法の定石に反する布陣をとった。退路を断たれた漢兵は「進んで戦うほかに生きる道はない」という決死の覚悟で奮戦し、その間に別動隊が手薄になった趙の本営を急襲して漢の旗を立てたことで趙軍は総崩れとなった。この戦法は後世「背水の陣はいすいのじん」の故事成語として広く知られ、韓信の用兵はこの戦い以後「国士無双こくしむそう」と評されるようになる。

劉邦
7滎陽けいよう・成皋せいこうの攻防204–203 BC
河南省滎陽市付近
漢軍:劉邦りゅうほう・紀信きしん
楚軍:項羽こうう

彭城での大敗後、劉邦りゅうほうは滎陽けいよう・成皋せいこうの要害に拠って項羽と長期にわたる持久戦を繰り広げた。一時は完全に包囲され絶体絶命に陥るが、忠臣紀信きしんが劉邦の身代わりとなって偽って降伏し、その隙に劉邦本人が西門から脱出するという捨て身の策で危機を脱したと伝えられる。にらみ合いの末、両軍はいったん鴻溝こうこうを境に天下を東西に分ける和議を結ぶが、劉邦は張良ちょうりょう・陳平ちんぺいの進言を容れてこの盟約を破り、撤退する項羽の背後を追撃する道を選ぶ。

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項羽
8垓下がいかの戦い202 BC
安徽省宿州市固鎮県付近
漢連合軍:韓信かんしん・劉邦りゅうほう・彭越ほうえつ・英布えいふ
楚軍:項羽こうう

韓信かんしんを総指揮とする漢の大軍が垓下がいかで疲弊した項羽の軍を幾重にも包囲した。夜、四方の漢軍の陣から項羽の故郷である楚の歌が聞こえてくると、項羽は「漢は既に楚をことごとく手に入れたのか」と嘆じたと伝えられ、この「四面楚歌しめんそか」に楚兵の戦意は完全に失われた。項羽は愛姫虞美人ぐびじんとの今生の別れを詩に詠んだ後、わずかな騎兵とともに包囲を突破するが、追い詰められた烏江うこうのほとりでついに自害した。項羽の死により楚漢戦争は終結し、勝者となった劉邦は皇帝に即位して漢王朝を開くことになる。

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楚漢戦争の前史にあたる春秋・戦国時代、後日談にあたる三国時代の合戦については、 あわせて下記の特集ページもご覧ください。