209年の陳勝・呉広の乱に始まり、202年の垓下の戦いで幕を閉じるまで——秦の滅亡から漢の統一までのわずか数年間は、 項羽と劉邦という対照的な二人の英雄が天下を賭けて戦った、中国史でも屈指の劇的な時代です。 このページでは、鉅鹿・鴻門・彭城・垓下など8つの主要な合戦と、そこで活躍した武将たちにスポットを当てて詳しく紹介します。
実際の海岸線をもとにした位置関係図です。朱色の番号は下の各合戦の位置を示しています。
辺境警備に向かう途上、大雨で期日に遅れ処刑される運命に直面した農民陳勝と呉広は、「王侯将相いずくんぞ種あらんや」の言葉とともに蜂起した。反乱は瞬く間に華北一帯へ広がり、陳勝は自ら「張楚」を名乗って独立政権を樹立するまでに至る。蜂起そのものは半年ほどで鎮圧されたが、これに触発されて項羽・劉邦をはじめ各地の反秦勢力が次々と挙兵し、秦崩壊への流れを決定づけることになった。
秦の主力軍に包囲された鉅鹿の反秦勢力を救援するため、項羽は自ら軍を率いて渡河すると、乗ってきた船を沈め、炊事用の釜を破壊して兵に退路を断たせ、決死の覚悟で戦わせた。この「破釜沈舟」の奇策により項羽軍は九度にわたる激戦のすべてに勝利し、秦の主力軍を壊滅させる。観戦していた諸侯の軍勢はその勇猛さに恐れをなし戦わずして降ったと伝えられ、この勝利により項羽は反秦諸侯連合の中心的指導者としての地位を確立した。
諸侯連合が鉅鹿で秦の主力を退ける間に、劉邦は別動隊を率いて先に秦の都咸陽へ入城していた。遅れて到着した項羽はこれに激怒し、鴻門の酒宴に劉邦を招く。参謀范増は剣舞に見せかけて暗殺を図るが、劉邦配下の樊噲が剣と盾を手に強引に宴席へ乱入して睨みを利かせ、劉邦は隙をついて脱出に成功したと伝えられる。この「鴻門の会」を経て項羽は諸侯に領土を分け与え自ら「西楚覇王」を称するが、論功行賞への不満はまもなく楚漢戦争の火種となっていく。
鴻門の会の後、辺境の漢中に追いやられた劉邦は、大将軍に抜擢した韓信の献策により関中奪還に動く。表向きは山中の桟道を修復すると見せかけて敵の目を引きつけ、その裏で別働隊がひそかに陳倉の間道を踏破するという「明修桟道、暗渡陳倉」の奇策により、関中を守っていた元秦将章邯の軍を撃破した。これにより劉邦は関中の地盤を取り戻し、項羽との本格的な覇権争い「楚漢戦争」の幕が切って落とされることになる。
項羽が斉の反乱鎮圧に出た隙をつき、劉邦は諸侯を糾合した56万ともいわれる大軍で楚の都彭城を陥落させた。しかし急報を受けた項羽はわずか3万の精鋭騎兵のみを率いて取って返すと、油断していた漢軍を明け方に奇襲し、たちまち総崩れに追い込んだ。逃げ惑う漢兵の多くが睢水に追い落とされて溺死したと伝えられ、劉邦自身もわずかな供回りとともに辛くも脱出する有様であった。数の上では圧倒的だった漢連合軍が、機動力に優れた項羽の精鋭にあっけなく打ち破られた、楚漢戦争屈指の逆転劇である。
劉邦の別働隊を率いる韓信は、寡兵で趙の大軍を打ち破るため、あえて川を背にして陣を敷くという兵法の定石に反する布陣をとった。退路を断たれた漢兵は「進んで戦うほかに生きる道はない」という決死の覚悟で奮戦し、その間に別動隊が手薄になった趙の本営を急襲して漢の旗を立てたことで趙軍は総崩れとなった。この戦法は後世「背水の陣」の故事成語として広く知られ、韓信の用兵はこの戦い以後「国士無双」と評されるようになる。
彭城での大敗後、劉邦は滎陽・成皋の要害に拠って項羽と長期にわたる持久戦を繰り広げた。一時は完全に包囲され絶体絶命に陥るが、忠臣紀信が劉邦の身代わりとなって偽って降伏し、その隙に劉邦本人が西門から脱出するという捨て身の策で危機を脱したと伝えられる。にらみ合いの末、両軍はいったん鴻溝を境に天下を東西に分ける和議を結ぶが、劉邦は張良・陳平の進言を容れてこの盟約を破り、撤退する項羽の背後を追撃する道を選ぶ。
韓信を総指揮とする漢の大軍が垓下で疲弊した項羽の軍を幾重にも包囲した。夜、四方の漢軍の陣から項羽の故郷である楚の歌が聞こえてくると、項羽は「漢は既に楚をことごとく手に入れたのか」と嘆じたと伝えられ、この「四面楚歌」に楚兵の戦意は完全に失われた。項羽は愛姫虞美人との今生の別れを詩に詠んだ後、わずかな騎兵とともに包囲を突破するが、追い詰められた烏江のほとりでついに自害した。項羽の死により楚漢戦争は終結し、勝者となった劉邦は皇帝に即位して漢王朝を開くことになる。
楚漢戦争の前史にあたる春秋・戦国時代、後日談にあたる三国時代の合戦については、 あわせて下記の特集ページもご覧ください。