「中国五千年史」- 新石器時代から現代まで、王朝・人物・出来事を年表と地図で辿る。日本史との対照や、歴史小説・漫画の紹介も
後宮とは、皇帝の妻や側室たちが暮らした宮殿の奥の空間のこと。そこに住む女性には細かな位が定められ、位によって住む宮殿、仕える侍女の数、年俸、着る服の色までが決められていた。位の名前と数は王朝ごとに変わったが、もっとも整い、中国ドラマでもおなじみなのが清の制度で、皇后を頂点に8段階に分かれていた。
乾隆年間にまとめられた『国朝宮史』では、後宮の位と定員、毎年支給される銀(年例銀)が次のように定められている。
| 位 | 定員 | 年俸 | ポイント |
|---|---|---|---|
| 1皇后 | 1人 | 1000両 | 皇帝の正妻。後宮全体を統べる「中宮」 |
| 2皇貴妃 | 1人 | 800両 | 皇后に次ぐ位。皇后がいないときは後宮を代わって取り仕切る |
| 3貴妃 | 2人 | 600両 | |
| 4妃 | 4人 | 300両 | 「令妃」のように封号+位で呼ばれる |
| 5嬪 | 6人 | 200両 | ここまでが一つの宮殿の主になれる位 |
| 6貴人 | 定員なし | 100両 | |
| 7常在 | 定員なし | 50両 | |
| 8答応 | 定員なし | 30両 | 正式な位の最下位 |
嬪以上の女性は、紫禁城の「東西六宮」と呼ばれる12の宮殿のどれかの主(主位)となり、貴人以下の女性はその宮殿の脇の建物に住んで主に従った。位は「冊封」によって与えられ、令妃の「令」、純貴妃の「純」のような一文字の封号を添えて呼ばれた。子を産んだり皇帝の寵愛を受けたりすると位が上がり、罰として下げられることもあった。
皇后の住まいは本来坤寧宮だが、清では坤寧宮が祭祀と皇帝の婚礼の場に使われたため、皇后も東西六宮の一つで暮らした。
乾隆帝の後宮を舞台にしたドラマの史実との違いは、『瓔珞』・『如懿伝』のページで解説しています。
唐の後宮は、古代の儒教の経典『礼記』に見える「一后・三夫人・九嬪・二十七世婦・八十一御妻」の考え方をもとに、役人と同じ「品」で位が表された。
| 区分 | 位 | 定員 | 品階 |
|---|---|---|---|
| 皇后 | 皇后 | 1人 | (品階の外) |
| 四夫人 | 貴妃・淑妃・徳妃・賢妃 | 各1人 | 正一品 |
| 九嬪 | 昭儀・昭容・昭媛・修儀・修容・修媛・充儀・充容・充媛 | 各1人 | 正二品 |
| 二十七世婦 | 婕妤/美人/才人 | 各9人 | 正三品/正四品/正五品 |
| 八十一御妻 | 宝林/御女/采女 | 各27人 | 正六品/正七品/正八品 |
楊貴妃の「貴妃」は名前ではなく位の名で、四夫人の筆頭にあたる。玄宗は一時期四夫人の名前を改めていたが、745年に楊玉環を貴妃に立てた。皇后は置かれていなかったため、楊貴妃は事実上の後宮の頂点だった。 楊貴妃の人物ページ →
武則天は14歳で太宗の後宮に入ったときは才人(正五品)にすぎなかった。太宗の死後、次の高宗の昭儀(九嬪の筆頭)として後宮に戻り、655年に皇后となって、のちには中国史上ただ一人の女帝にまで上りつめた。 武則天の人物ページ →
前漢のはじめ、皇后の下には夫人・美人・良人・八子・七子・長使・少使の位があった。武帝が婕妤などの位を加え、元帝が最上位に昭儀を置いて、最終的に十四等にまで細かく分かれた。昭儀の待遇は丞相(宰相)に、婕妤は大臣(上卿)に並ぶとされた。後漢を開いた光武帝はこれを簡素にし、皇后の下は貴人・美人・宮人・采女の4つだけになった。清の「貴人」はこの後漢の位の名前を受け継いだものである。
前漢の王昭君は、元帝の後宮に入りながら位を得られず、匈奴に嫁ぐことになった女性として知られる(中国四大美女)。また劉邦の皇后呂后は、夫の死後に側室の戚夫人を残酷な方法で殺したことで、後宮の争いの恐ろしさを伝える人物となった。
日本の平安時代の宮中にも、皇后(中宮)・女御・更衣といった后妃の位があった。『源氏物語』は「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひける」と始まり、主人公の母桐壺更衣は、位の低い更衣でありながら帝の寵愛を受けたために妬まれた。「中宮」はもともと皇后の住む宮殿を指す中国の言葉で、日本では皇后の別名として使われるようになった。日本の後宮は唐の制度にならって作られたが、位の数ははるかに少なく、清のような細かな定員や年俸の表は持たなかった。
皇后は皇帝の正式な妻で、ただ一人だけが冊立される。皇貴妃はあくまで側室の最上位で、皇后の儀礼上の地位には及ばない。ただし清では皇后が亡くなったり廃されたりしたとき、皇貴妃が後宮の実務を任されることが多く、次の皇后候補と見なされた。乾隆帝の継皇后(ドラマ『如懿伝』の主人公のモデル)も、皇貴妃を経て皇后に立てられている。
清の制度では貴妃の方が上で、妃より一段高い。日本語では側室をまとめて「妃」と呼ぶことも多いが、中国の後宮では「妃」は皇貴妃・貴妃の下、嬪の上にあたる特定の位を指す。
清の定員は皇后から嬪までで14人だが、貴人以下には定員がないため、実際の人数は皇帝によって大きく違う。乾隆帝は位を持つ后妃だけで40人あまりが記録されている。唐の制度上の定員は皇后を除いて121人にのぼるが、これは理想を示した数字で、玄宗の時代には「後宮三千人」と詠われるほど多くの女性が宮中にいた(多くは位のない宮女)。
清では、八旗に属する家の13〜16歳ほどの娘が3年に一度の「選秀女」で審査され、選ばれると妃嬪の候補になった。これとは別に、皇室の使用人の家(内務府包衣)の娘も毎年宮女として集められ、皇帝の目に留まれば位を与えられた。『瓔珞』の主人公のモデル令妃(魏佳氏)はこの宮女出身で、最後は皇貴妃にまで上り、その子が次の皇帝嘉慶帝になった。
清朝を舞台にした中国ドラマでは、嬪以上の位の女性を「娘娘」、貴人以下を「小主」と呼び分けることが多い。どちらも敬称で、ドラマでは呼び方の違いで位の高さがすぐわかるように使われている。実際の宮中では「主子」などの呼び方も使われており、ドラマの呼び分けは演出上の約束事という面が強い。
後宮の女性たちが仕えた歴代の皇帝や、後宮を舞台にしたドラマの史実も別ページで紹介しています。