隋
581 – 618

隋の出来事一覧

分裂した南北を、文帝がついに一つに束ねる。大運河を切り開き、科挙という新たな官吏登用制度を生み出した隋。だが二代皇帝・煬帝の度重なる遠征と大土木事業は民を疲弊させ、統一からわずか四十年足らずで王朝は炎上する。

581隋の建国(楊堅ようけん)
王朝

北周の外戚として重きをなしていた楊堅は、幼い静帝から禅譲を受ける形で隋を建国し、文帝として即位した。楊堅もまた宇文泰が組織した関隴集団の出身であり、南北朝末期の軍事貴族層から統一王朝の創始者が生まれるという流れを体現する人物であった。文帝は即位後ただちに中央官制や税制の整備に着手し、後の南朝陳征服とあわせて約300年ぶりとなる中国統一への道筋をつけていく。なお皇后独孤氏は政治にも強い発言力を持ち、文帝が側室を持つことを厳しく戒めたという逸話が伝わっており、後宮のあり方としては当時としては異色であったとされる。

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589陳を滅ぼし中国再統一
王朝

隋の文帝は将軍賀若弼・韓擒虎らに命じて長江を渡らせ、享楽的な生活で国力を落としていた南朝最後の王朝陳を攻めさせた。皇帝陳叔宝(陳後主)はほとんど組織的な抵抗ができないまま都建康で捕らえられ、南朝はあっけなく滅亡した。これにより西晋滅亡(316年)以来約270年、あるいは後漢末の分裂から数えればさらに長期間にわたって続いた中国の分裂状態がついに終わりを告げ、隋のもとで南北が一つの王朝に統合された。この統一によって江南の豊かな経済力と文化的蓄積が北の統治機構と結びつき、後の唐代における空前の繁栄を準備する基盤が形成されることになった。

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605科挙制度の創設
文化

隋の煬帝の時代、家柄によらず学識・才能を試験で測って官僚に登用する進士科が整備され、これが後世「科挙」と呼ばれる試験制度の実質的な確立とされる(文帝の時代にすでに類似の選抜試験の萌芽があったとも言われる)。従来、官僚登用は魏晋南北朝以来の九品中正制のもとで有力な貴族の子弟に有利な仕組みであったが、科挙の導入により建前上は家柄によらない人材登用の道が開かれることになった。この制度は隋・唐を経て整備が進み、後の宋代にはさらに公平性を高める工夫(糊名法など)が加えられ、清朝末期の1905年に廃止されるまで実に1300年以上にわたり中国の官僚登用の根幹であり続けた。科挙は中国のみならず、朝鮮やベトナムなど周辺諸国の官僚制度にも大きな影響を及ぼした。

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605大運河の建設
文化

煬帝は南北を結ぶ水運網の整備を目的に、既存の河川や運河を接続・拡張する大運河建設事業を推し進めた。永済渠・通済渠・邗溝・江南河などの区間が次々に開削され、洛陽を中心に北は涿郡(現・北京付近)、南は余杭(現・杭州)にまで至る一大水運網が完成した。この事業には数百万人ともいわれる民夫が徴発されたと伝わり、過酷な労役は民衆の疲弊と怨嗟を招き、隋末の反乱の一因になったとも指摘される。一方でこの運河は完成後、南方の豊かな穀物や物資を北の政治中心地へ運ぶ大動脈として機能し続け、後世の元代には大都(北京)へ直結する形に改修されるなど、現代に至るまで中国の経済を支える重要な水路であり続けている。

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612高句麗こうくり遠征の失敗
対外関係

煬帝は高句麗を服属させるべく612年から613年、614年と三度にわたり大規模な遠征を敢行し、初回の612年には100万を超えるとも伝えられる空前の大軍を動員した。しかし高句麗の将軍乙支文徳の巧みな誘引作戦により薩水(清川江)付近で隋軍は壊滅的な敗北を喫し、生還できた兵はごくわずかであったと伝わる。度重なる遠征の失敗にもかかわらず煬帝は遠征を強行し続け、莫大な戦費と兵力の損失、そして遠征のための重税と労役は民衆の不満を極限まで高めることになった。613年には遠征中に重臣楊玄感が反乱を起こすなど、高句麗遠征の失敗は隋末の混乱を一気に加速させる直接の引き金となった。

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618煬帝ようだい暗殺・隋の滅亡
戦争・動乱

晩年の煬帝は度重なる外征の失敗と各地で相次ぐ反乱を前に洛陽・長安を離れて江都(現・揚州)に逃れ、現実から目を背けるように享楽的な生活に浸っていたと伝えられる。もはや帰る場所を失いつつあった禁軍の将兵の間で不満が高まり、618年、将軍宇文化及らが反乱を起こして煬帝を殺害するに至った。これにより文帝の建国からわずか37年で隋は事実上崩壊し、各地の群雄が割拠する内乱状態に突入する。混乱の中で太原から挙兵した李淵が長安を制圧して煬帝の孫を一時擁立した後、まもなく禅譲を受けて自ら皇帝に即位し、新たに唐王朝を開くことになる。

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