秦
221 BC – 206 BC

秦の出来事一覧

紀元前221年、五百年におよぶ戦乱の果てに、天下はついに一人の男の手に落ちる。西の辺境から興った秦王政、後の始皇帝である。度量衡を統一し、文字を統一し、万里の長城を築き上げ、史上初めて「皇帝」を名乗った男。だが、その絶頂に築かれた帝国は、わずか十五年で崩れ去る——中国史上、もっとも劇的な統一と崩壊がここにある。

221 BC始皇帝しこうてい、中国統一
王朝

戦国七雄のうち最後まで抵抗した斉を滅ぼし、秦王政は中国史上初めて全土を統一する。統一後は自ら「皇帝」の称号を創始し、三皇五帝を超える権威を天下に示そうとした。度量衡・文字・貨幣の統一に加え、車軌(車輪の幅)まで規格を揃えるなど、分裂していた社会基盤を隅々まで均質化する政策を矢継ぎ早に打ち出した。従来の封建制を廃して郡県制による中央集権体制を敷き、官僚が皇帝の命令一つで全土を統治する仕組みを作り上げたことは、以後2000年余り続く中国的統治システムの原型となった。在位はわずか十数年に過ぎなかったが、その統治の枠組みは後の漢以降の諸王朝にも受け継がれていく。

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221 BC郡県制の施行
文化

周代以来の血縁を基盤とした封建制(分封制)を廃止し、全国を36(後に増設され40余り)の郡に分割、その下にさらに県を置く二段階の地方行政制度を導入した。丞相李斯の献策によるとされ、諸侯に土地を分け与えて世襲させる旧来の方式を排除することで、地方勢力が独自の軍事力を蓄えて中央に反旗を翻す危険を未然に防ぐ狙いがあった。郡には郡守(行政)・郡尉(軍事)・郡監(監察)という三権が分立する官職が置かれ、いずれも皇帝が任免する官僚が務め世襲は認められなかった。この制度は秦の滅亡後も漢以降の歴代王朝におおむね継承され、多少の変遷を経ながらも中国における中央集権的な地方統治の基本形として長く機能し続けることになる。

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214 BC万里の長城の修築
文化

将軍蒙恬に命じて匈奴を北方へ退けた上で、戦国時代に燕・趙・秦などが個別に築いていた防壁を連結・修築し、西は臨洮(現・甘粛省)から東は遼東に至る大規模な防衛線を築き上げた。工事には全国から徴発された数十万人ともいわれる民衆が動員され、過酷な労役により多くの犠牲者を出したと伝えられ、これが秦への民衆の不満を高めた一因ともされる。「孟姜女泣長城」(夫を長城建設で失った女性が城壁を泣き崩したという伝説)はこの労苦を象徴する説話として後世広く語り継がれている。現存する秦代の城壁遺構は少なく、現在観光地として知られる長城の多くは後代、特に明代に大規模に改修・増築された部分であるが、この時に定まった北方防衛線という構想そのものは以後の歴代王朝にも受け継がれていった。

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213 BC焚書坑儒ふんしょこうじゅ
文化

丞相李斯の提言により、医薬・占卜・農業に関する実用書と秦の記録を除く諸国の史書や儒家の経典などを焼却させ、思想・言論を統制しようとした事件である。翌年には、方士が不老不死の仙薬を得られなかったことへの始皇帝の怒りを発端に、皇帝を批判したとされる儒者・方士数百人を生き埋めにしたと『史記』は伝えている。この二つの弾圧はあわせて「焚書坑儒」と呼ばれ、以後の儒教社会において始皇帝が暴君として断罪される最大の根拠の一つとなった。ただし焼却の対象や坑儒の実態については後世の誇張も指摘されており、近年の研究では規模や性格をめぐって様々な議論がなされている。陝西省西安近郊の臨潼には、伝承上この坑儒が行われた地とされる「坑儒谷」が旧跡として伝わっている。

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209 BC陳勝ちんしょう・呉広ごこうの乱
戦争・動乱

辺境警備に徴発された農民陳勝・呉広らの一団が、大雨で期日に間に合わなくなり法により処刑される運命に直面したことから、「王侯将相いずくんぞ種あらんや(王侯や将軍・宰相に生まれながらの身分の違いなどあろうか)」の言葉とともに蜂起した事件である。反乱はまたたく間に各地へ広がり、陳勝は自ら「張楚」を名乗って一時は独立政権を樹立するまでに至った。挙兵からわずか半年ほどで陳勝・呉広自身は部下の裏切りにより落命し反乱そのものは鎮圧されるが、これをきっかけに項羽・劉邦をはじめとする各地の反秦勢力が次々と挙兵し、秦崩壊への流れを決定づけることになった。中国史上初めて農民が主体となって王朝に反旗を翻した事件として位置づけられ、後世「陳勝・呉広の乱」は農民反乱の象徴的先例として繰り返し言及されることになる。

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206 BC秦の滅亡・鴻門こうもんの会
戦争・動乱

反秦勢力の中心となった項羽と劉邦のうち、先に関中へ入り秦の都咸陽を占領したのは劉邦であった。遅れて到着した項羽はこれに激怒し、鴻門で開いた酒宴に劉邦を招く。席上、項羽の参謀范増は剣舞に見せかけて劉邦を暗殺しようと図るが、劉邦配下の樊噲らの機転により劉邦は虎口を脱することに成功したと『史記』は伝えており、この「鴻門の会」は以後、中国史上屈指の緊迫した会見として語り継がれている。一方、秦帝国そのものは、宦官趙高による専横と二世皇帝胡亥の暗殺、これに続く三世王子嬰の即位という混乱の末、子嬰が劉邦に降伏したことで建国よりわずか15年で滅亡した。その後、項羽と劉邦は天下の覇権を争う楚漢戦争へと突入し、最終的に勝利した劉邦が漢王朝を開くことになる。

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