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魏・呉・蜀の違いとは?

後漢が滅んだ220年から、西晋が天下を再統一する280年まで、中国は曹操そうそうの流れをくむ「魏」、孫権そんけんの「呉」、劉備りゅうびの「蜀」の三国に分かれて争った。これが三国志で知られる三国時代である。三国は同時代に並び立ったものの、領土の広さや人口、国の成り立ちや政治のあり方は大きく異なっていた。このページでは、魏・呉・蜀の違いを一覧表と国力のデータで比較し、それぞれの強みと弱み、代表的な人物をわかりやすく解説する。

魏・呉・蜀の比較一覧表

魏魏曹魏呉呉孫呉・東呉蜀蜀蜀漢(正式な国号は「漢」)
建国者曹丕(基礎を築いたのは父の曹操)孫権(基盤は父孫堅・兄孫策)劉備
建国220年222年(自立) 229年(皇帝即位)221年
滅亡265年280年263年
存続期間約45年約58年約42年
都洛陽(らくよう)建業(けんぎょう、現在の南京)成都(せいと)
主な領土華北一帯(黄河流域)長江中・下流域〜江南、交州(ベトナム北部)益州(四川盆地)と漢中
戸籍上の人口約443万人約230万人約94万人
皇帝の数5人4人2人
最後の皇帝曹奐(そうかん)孫晧(そんこう)劉禅(りゅうぜん)
滅亡の経緯司馬炎に帝位を譲り、西晋に交代西晋の大軍に攻められ降伏魏の鄧艾・鍾会の侵攻で降伏
代表的な軍師荀彧・郭嘉・司馬懿周瑜・魯粛・陸遜諸葛亮・龐統・法正

※存続期間は建国(呉は自立した222年)から滅亡までの概数。人口は戸籍に登録された数で、下の「国力の比較」を参照。

国力の比較:人口は魏が蜀の約5倍

戸籍上の人口(滅亡時点)
魏
約66万戸(263年)
443万人
呉
約52万戸(280年)
230万人
蜀
約28万戸(263年)
94万人

魏の人口は呉と蜀を合わせた数より多く、国力の差は歴然としていた。蜀の諸葛亮が繰り返した北伐は、この差が広がる前に先手を打とうとする戦いでもあった。 なお、後漢の最盛期(2世紀半ば)には戸籍上の人口が約5600万人あったとされ、三国の合計はその7分の1ほどにすぎない。 戦乱による犠牲に加え、国家が戸籍で把握できない流民や豪族の支配下の人々が増えたためと考えられており、実際の人口はこれよりかなり多かったとみられる。

それぞれの国の特徴

曹操
魏

魏曹魏

華北を押さえた最大の大国

肖像:曹操 / 『三才図会』(明代) / Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

曹操そうそうが後漢の献帝を擁して華北を平定し、その子曹丕そうひが220年に献帝から帝位を譲られて(禅譲)建てた王朝。人口・農業生産力ともに三国の中で群を抜き、屯田制とんでんせいによる食糧確保や、人材登用制度「九品官人法きゅうひんかんじんほう」の整備など、制度面でも後の王朝の土台を築いた。しかし曹叡(明帝)の死後は幼帝が続き、249年の高平陵こうへいりょうの変で司馬懿しばいが実権を掌握。265年、司馬懿の孫司馬炎しばえんに帝位を譲って滅んだ。

強み
  • ・人口・生産力が三国最大
  • ・屯田制や官僚制度など統治の仕組みが整っていた
  • ・「漢から正式に禅譲を受けた」という正統性
弱み
  • ・皇帝権力が早くから弱まり、重臣の司馬氏に国を奪われた
  • ・北方の異民族や東の呉・西の蜀と、多方面の防衛が必要だった
代表的な人物
曹操曹丕司馬懿荀彧郭嘉夏侯惇張遼鄧艾
孫権
呉

呉孫呉・東呉

長江と水軍に守られた江南の国

肖像:孫権 / Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

孫堅そんけん・孫策そんさく父子が築いた江東(長江下流域)の地盤を、孫権そんけんが受け継いで建てた国。208年の赤壁の戦いで曹操の南下を退け、219年には関羽を破って荊州の大部分を手に入れた。222年に独自の元号を定めて自立し、229年に皇帝に即位した。長江という天然の防壁と強力な水軍に守られ、江南の開発を大きく進めたことは、後の南朝や中国経済の重心の南下につながっていく。孫権の晩年は後継者争い(二宮事件)で国が揺らぎ、最後の皇帝孫晧そんこうの暴政もあって、280年に西晋に降伏した。

強み
  • ・長江と水軍による鉄壁の守り
  • ・江南の開発で経済力を伸ばした
  • ・三国の中で最も長く存続した
弱み
  • ・豪族の連合という性格が強く、皇帝の求心力が弱かった
  • ・孫権晩年の後継者争いで人材を失った
代表的な人物
劉備
蜀

蜀蜀漢(正式な国号は「漢」)

漢の復興を掲げた最小の国

肖像:劉備 / Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

漢の皇族の末裔を称する劉備りゅうびが、軍師諸葛亮しょかつりょうの「天下三分の計」に沿って荊州・益州(現在の四川省)を手に入れ、曹丕の即位に対抗して221年に皇帝に即位した国。国号はあくまで「漢」で、漢王朝の正統な後継者を名乗った。劉備の死後は諸葛亮が幼い劉禅りゅうぜんを補佐し、南中(南方)を平定したうえで魏への北伐を繰り返したが、234年に五丈原の陣中で病没。その後も姜維きょういが北伐を続けたが国力は疲弊し、263年に魏の鄧艾とうがいが成都に迫ると劉禅は降伏した。

強み
  • ・四方を山に囲まれた四川盆地は守りやすく豊か
  • ・諸葛亮による厳格で公平な政治
  • ・「漢の復興」という明確な大義名分
弱み
  • ・人口・国力が三国で最も小さい
  • ・関羽の敗死と夷陵の戦いの大敗で荊州と多くの人材を失った
  • ・度重なる北伐で国力を消耗した

三国の興亡年表

勢力図の移り変わり

群雄割拠の時代から三国鼎立、そして西晋による統一まで、魏(青)・呉(朱)・蜀(緑)の領土がどう変わったかをアニメーションで確認できます。

184年の黄巾の乱から280年の天下統一まで、勢力図の移り変わりを簡略化した州単位のアニメーションでたどります(州境は史実を厳密に示すものではありません)。

公孫瓚袁紹曹操陶謙袁術劉表孫堅劉璋馬騰・韓遂
群雄割拠190年頃

黄巾こうきんの乱の後、後漢の統制は崩れ、各地の群雄がそれぞれ自立した勢力圏を築いていた。

公孫瓚こうそんさん
袁紹えんしょう
曹操そうそう
陶謙とうけん
袁術えんじゅつ
劉表りゅうひょう
孫堅そんけん
劉璋りゅうしょう
馬騰ばとう・韓遂かんすい

魏・呉・蜀についてのよくある疑問

Q.魏・呉・蜀で一番強かったのはどこ?

国力では魏が圧倒的で、戸籍上の人口は魏が約443万人、呉が約230万人、蜀が約94万人と、魏だけで呉と蜀の合計を上回っていました。最終的に天下を統一したのも、魏の実権を握った司馬氏が建てた西晋です。

Q.なぜ劉備の国を「蜀」と呼ぶの?

劉備の国の正式な国号は「漢」でした。前漢・後漢と区別するため、後世には本拠地の地名(蜀=現在の四川省)から「蜀」や「蜀漢」と呼ばれます。正史『三国志』でも劉備の国の記録は「蜀書」としてまとめられています。

Q.三国で最後まで残ったのはどこ?

呉です。蜀は263年に魏に滅ぼされ、魏も265年に司馬炎に帝位を譲って西晋に代わりました。呉はその後も15年間存続しましたが、280年に西晋に降伏し、三国時代は幕を閉じました。

Q.正史『三国志』と『三国志演義』では、どの国が主役?

西晋の歴史家・陳寿がまとめた正史『三国志』は、晋に帝位を譲った魏を正統な王朝として扱っています。一方、明代に成立した小説『三国志演義』は、漢の復興を掲げた劉備と諸葛亮の蜀を主人公側として描き、曹操を敵役にしています。日本で広く親しまれている三国志のイメージの多くは、この『演義』に由来します。

Q.三国を統一したのは誰?

西晋の初代皇帝・司馬炎(武帝)です。祖父は諸葛亮のライバルとして知られる魏の重臣・司馬懿で、司馬氏は三代かけて魏の実権を握り、265年に魏から帝位を譲り受けました。そして280年に呉を滅ぼして中国を再統一しました。

三国が激突した官渡・赤壁・夷陵・五丈原などの合戦は「三国時代 合戦マップ」で、登場人物の詳しい生涯は人物一覧で紹介しています。