清
1644 – 1912

清の出来事一覧

満州族が山海関を越え、中国最後の統一王朝・清を打ち立てる。康熙・雍正・乾隆の三代にわたる盛世は、史上最大級の版図を築き上げた。だが阿片戦争を境に、この巨大帝国は列強の前に次々と屈し、二千年余り続いた皇帝支配の歴史そのものが、辛亥革命によって幕を下ろす。

1644清の北京入城
王朝

李自成軍によって北京が陥落し明が事実上滅亡すると、山海関を守っていた明の武将呉三桂は、宿敵李自成を討つべく清の摂政ドルゴン(多爾袞)に援軍を要請し、関門を開いて清軍を招き入れた。清軍は李自成軍を撃破すると、その勢いのまま北京に入城し、幼い順治帝を迎えて満洲族による中国支配が事実上始まることとなる。清はまもなく漢人男性に対し満洲式の辮髪と剃髪を強制する「薙髪令」を発布し、「頭を留めれば髪を留めず、髪を留めれば頭を留めず」という強硬な布告のもと、江南各地で激しい抵抗運動(揚州十日・嘉定三屠など)を招くことになった。また南方では明の皇族を奉じる南明政権がなお抵抗を続けており、清が中国全土を完全に制圧するまでにはなお数十年の歳月を要することになる。

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1661康熙帝こうきていの治世(最盛期へ)
王朝

わずか8歳で即位した康熙帝は、15歳の時に専横を極めていた重臣鰲拝を排除して親政を開始すると、以後61年という中国歴代皇帝中最長の在位期間を通じて清の統治基盤を盤石なものへと築き上げていった。即位早々には呉三桂ら旧明の降将たちが起こした大規模な反乱「三藩の乱」を8年がかりで鎮圧し、1683年には台湾に拠っていた鄭氏政権を降して版図に組み込んだ。対外的にはロシアとの間でネルチンスク条約を締結して国境を画定し、モンゴル高原西部のジュンガル部に対しても親征を行うなど、内陸アジア方面への影響力拡大にも努めた。さらに『康熙字典』の編纂に代表される大規模な文化事業を推進し、学芸を篤く保護したことでも知られ、その治世は続く雍正・乾隆の両治世と合わせて「康雍乾盛世」と呼ばれる清朝最盛期の礎を築くことになった。

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1839アヘン戦争
戦争・動乱

18世紀後半以降、英国東インド会社はインド産アヘンを清に大量に密輸し、これにより清国内では深刻なアヘン中毒の蔓延と、代価として支払われる銀の国外流出という二重の危機が進行していた。事態を憂慮した清朝は欽差大臣に任じた林則徐を広州に派遣し、1839年、没収した英国商人所有のアヘン約2万箱を虎門で廃棄処分する強硬策(虎門销烟)に踏み切った。英国はこれを自由貿易の侵害であるとして艦隊を派遣し開戦、近代的な軍艦・火砲を備えた英国軍の前に清軍は各地で敗北を重ねることとなる。1842年に結ばれた南京条約では香港島の割譲、広州・厦門・福州・寧波・上海の五港開港、巨額の賠償金支払い、さらに関税自主権の喪失などが定められ、これが中国近代史における一連の「不平等条約」体制の始まりとなった。

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1851太平天国たいへいてんごくの乱
戦争・動乱

広東の客家出身で科挙に度重なる不合格を経験した洪秀全は、キリスト教の教義を独自に解釈し、自らをイエス・キリストの弟と称する宗教結社「拝上帝会」を組織した。1851年に広西で挙兵すると急速に勢力を拡大し、「太平天国」の建国を宣言、1853年には南京を占領して「天京」と改称し首都に定めた。太平天国は男女平等や土地の均分配分を掲げる「天朝田畝制度」など、当時としては急進的な社会改革を打ち出した一方、指導部内での凄惨な権力闘争「天京事変」により内部から急速に弱体化していく。最終的には曽国藩率いる湘軍、李鴻章の淮軍といった漢人官僚が組織した義勇軍と外国人傭兵部隊(常勝軍)の協力によって1864年に鎮圧されたが、この内乱による死者は諸説あるものの2000万人規模に達したともいわれ、人類史上でも屈指の犠牲者を出した内乱として記録されている。

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1894日清戦争
戦争・動乱

朝鮮半島で発生した甲午農民戦争(東学党の乱)への出兵をめぐり対立を深めた清と日本は、1894年、正式に開戦に至った。清が国力を注いで整備してきた近代的艦隊北洋水師は、黄海海戦において新興の日本連合艦隊に敗れ、陸上でも各地で日本軍に押される展開となった。1895年に結ばれた下関条約では、朝鮮の独立承認、遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、そして当時の清の国家予算の数年分に相当する巨額の賠償金2億両の支払いが定められた(遼東半島は直後の三国干渉によりロシア・フランス・ドイツの圧力で清に返還される)。この敗北により、清を中心とする東アジアの伝統的な冊封体制・華夷秩序は事実上崩壊し、以後は日本を含む列強諸国による租借地獲得競争、いわゆる「中国分割」の動きが一気に加速することになった。

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1900義和団事件ぎわだんじけん
戦争・動乱

山東省を発端に広がった義和団は「扶清滅洋(清を助け西洋を滅ぼす)」を掲げ、キリスト教会や外国人宣教師、鉄道・電信施設などを次々と襲撃する排外運動を展開した。当初これを取り締まろうとしていた清朝の保守派、とりわけ実権を握る西太后は、次第に義和団の勢いを利用する方向へと転じ、1900年には列強諸国に対し正式に宣戦布告を行うという異例の決断に踏み切る。これに対し日本・英国・米国・フランス・ドイツ・ロシア・イタリア・オーストリアの8か国は連合軍を組織して天津・北京を占領し、この過程で北京の各国公使館が2か月近く包囲される「北京の55日」として知られる籠城戦も発生、西太后と光緒帝は北京を脱出して西安へ避難する事態となった。1901年に結ばれた北京議定書では、天文学的な額に上る賠償金の支払いや北京への外国軍常駐権などが認められ、清朝の国際的権威と統治能力は決定的に失墜することとなった。

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1911辛亥革命しんがいかくめい
戦争・動乱

清朝末期に進められていた立憲政治への改革は、実権をなお満洲貴族に独占させる「皇族内閣」の成立によって漢人官僚・知識人の期待を裏切る結果となり、さらに幹線鉄道の国有化政策が四川などで激しい反対運動(保路運動)を引き起こしていた。こうした不満が高まる中、1911年10月、武昌に駐屯していた新軍内部の革命派組織が、火薬の暴発事故をきっかけに計画の露見を恐れて予定を早め蜂起に踏み切ると、これに呼応する形で各省が雪崩を打つように清朝からの独立を宣言していった。孫文が長年海外で唱えてきた民族・民権・民生の「三民主義」の理念は独立運動の思想的支柱となり、革命は驚くほどの速さで全土に波及していく。この結果、清朝最後の皇帝であるわずか6歳の宣統帝溥儀は翌1912年2月に退位を余儀なくされ、秦の始皇帝以来2000年以上にわたり続いてきた中国の皇帝支配は、ここに歴史的な幕を下ろすことになった。

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