始皇帝は、紀元前221年に中国史上はじめて天下を統一し、王に代わる「皇帝」という称号を自ら創始した人物である。姓は嬴、諱(いみな)は政といい、秦王として即位した当初は秦王政と呼ばれた。統一後は「最初の皇帝」を意味する「始皇帝」を自称し、子孫が二世・三世と皇帝の位を万世にわたって継承していくことを望んだ。度量衡・貨幣・文字の統一、郡県制による中央集権体制、万里の長城の修築など、その治世に定めた統治の骨格は、以後2000年以上続く中国の国家運営の原型となった。一方で焚書坑儒に代表される過酷な思想統制や、長城・陵墓建設のための苛烈な労役から「暴君」とも評され、中国史上もっとも評価の分かれる皇帝の一人とされる。
秦は長年にわたる合従連衡の外交戦を経て着実に国力を蓄え、前260年の長平の戦いで最大の対抗馬であった趙に壊滅的な打撃を与えたことで、統一への道が決定的なものとなった。始皇帝は李斯ら法家の臣を用いて富国強兵をさらに推し進めると、韓(前230年)・趙(前228年)・魏(前225年)・楚(前223年)・燕(前222年)・斉(前221年)の順に六国を次々と滅ぼし、前221年、中国史上初めて単一の権力のもとに広大な領域をまとめ上げた。従来の「王」ではもはや自らの偉業を表すのにふさわしくないとして、伝説上の三皇五帝を超える権威を示すべく「皇帝」という新たな称号を創始し、自らを最初の皇帝を意味する始皇帝と号した。この統一は、前403年の三家分晋の公認から数えて約180年、前770年の平王東遷から数えるとおよそ550年に及んだ分裂と抗争の時代についに終止符を打つ画期的な出来事であった。
「戦国の終結」を年表で読む →統一後の始皇帝は、周代以来の血縁を基盤とした封建制(分封制)を廃止し、全国を36(後に40余り)の郡に分け、その下に県を置く郡県制を導入した。郡には皇帝が任免する官僚が置かれて世襲は認められず、地方勢力が独自の軍事力を蓄えて中央に反旗を翻す危険を未然に防ぐ狙いがあった。あわせて度量衡・貨幣(半両銭)・文字(小篆)に加え、車軌(車輪の幅)まで規格を統一し、分裂していた社会基盤を隅々まで均質化する政策を矢継ぎ早に打ち出した。
こうした中央集権体制は、皇帝の命令一つで全土を統治する仕組みとして、以後2000年余り続く中国的統治システムの原型となった。その一方で、都咸陽近郊に築かせた壮麗な宮殿阿房宮や、全国を結ぶ幹線道路「馳道」の整備など、大規模事業を次々と推し進めたことは民の負担を増大させ、後の秦滅亡の遠因ともなった。
秦は元来、戦国中期の商鞅による変法以来、法治と信賞必罰を徹底する法家思想を国是としてきた国であり、始皇帝もこれを引き継いで丞相李斯に統治の実務を担わせた。法家は、血縁や身分ではなく明文化された法と厳格な賞罰のみに基づいて国を治めるべきだと説き、儒家が重んじる仁愛や礼、旧来の身分秩序を軽視・否定する立場をとった。始皇帝は韓非子の著作を愛読したと伝えられ、法家の徹底した現実主義・中央集権思想は、六国を滅ぼし広大な統一国家をまとめ上げる原動力となった。
しかし前213年、丞相李斯の提言により、医薬・占卜・農業に関する実用書と秦の記録を除く諸国の史書や儒家の経典などを焼却させ、思想・言論を統制しようとした「焚書」が行われる。翌前212年には、方士が不老不死の仙薬を得られなかったことへの始皇帝の怒りを発端に、皇帝を批判したとされる儒者・方士数百人を生き埋めにしたと『史記』は伝えており、この二つの弾圧はあわせて「焚書坑儒」と呼ばれる。以後の儒教社会において始皇帝が暴君として断罪される最大の根拠の一つとなったが、焼却の対象や坑儒の実態については後世の誇張も指摘されており、近年の研究では規模や性格をめぐって様々な議論が続いている。
「焚書坑儒」を年表で読む →前214年、始皇帝は将軍蒙恬に命じて北方の匈奴を討たせ、戦国時代に燕・趙・秦などが個別に築いていた防壁を連結・修築し、西は臨洮(現・甘粛省)から東は遼東に至る大規模な防衛線を築き上げた。工事には全国から徴発された数十万人ともいわれる民衆が動員され、過酷な労役により多くの犠牲者を出したと伝えられる。夫を長城建設で失った女性が城壁を泣き崩したという「孟姜女泣長城」の伝説はこの労苦を象徴する説話として後世広く語り継がれ、長城建設への民衆の恨みは秦への不満を高めた一因ともされる。現存する秦代の城壁遺構は少なく、現在観光地として知られる長城の多くは明代に大規模改修・増築された部分だが、この時定まった北方防衛線という構想そのものは以後の歴代王朝にも受け継がれていった。
即位直後から始皇帝は、都咸陽近郊の驪山のふもとに、自らの陵墓の造営を開始させたと伝えられる。統一後はさらに規模を拡大し、延べ70万人が動員されたとも『史記』は記す。歴史書には、地下宮殿の中に水銀で川や海を再現し、天井には夜空に見立てて真珠がちりばめられ、侵入者を射抜く仕掛けの弩まで備えられていた、との記述が残る。荒唐無稽な伝説のようにも思えるが、現代の調査では墳丘周辺の土壌から通常より高い濃度の水銀が検出されたとの報告もあり、盗掘や保存技術の限界に加えた未知のリスクへの懸念もあって、地下宮殿本体の本格的な発掘は現在も見送られたままとなっている。
兵馬俑は、始皇帝陵の副葬(陪葬)として陵墓の東側に配置された、等身大の陶製兵士・軍馬・戦車の像群である。1974年、陝西省臨潼の農民が井戸を掘っていたところ偶然発見され、20世紀最大級の考古学的発見の一つとして世界中に知られることになった。発掘された3つの坑からは推定8000体以上の像が見つかっており、一体ずつ顔つきが異なる点や、当初は鮮やかに彩色されていた点でも知られる。あの世でも死後の始皇帝を守護する軍団として作られたと考えられており、1987年には秦始皇陵とあわせてユネスコの世界遺産に登録された。
始皇帝は前210年、5度目となる全国巡幸の途上、河北の沙丘で急死した。享年50。正史『史記』は死因を明記しておらず、単に病没とのみ記す。晩年の始皇帝は死への強い恐れから不老不死を追い求め、方士に命じて仙薬を探させており、水銀を含む「仙薬」を服用し続けたことによる中毒死説が有力視されているが、巡幸の疲労や持病による病死説もあり、確たる結論は出ていない。方士徐福が「東方の蓬莱の島に仙薬がある」と説いて数千人を率いて船出したものの、二度と戻らなかったという伝説もこの時期のものである。
側近の宦官趙高と丞相李斯は、巡幸に同行していなかった長子扶蘇が即位すれば自分たちの立場が危うくなることを恐れ、始皇帝の死を隠したまま偽の遺詔を作成する(「沙丘の変」)。遺体の腐敗による異臭をごまかすため、車列に大量の塩漬け魚を積ませて隠し通したという逸話も伝わる。都に戻ると偽の遺詔により扶蘇と将軍蒙恬に自害を命じ、末子胡亥を二世皇帝として擁立した。
趙高の擁立で即位した二世皇帝胡亥は趙高の傀儡と化し、重税と過酷な法をそのまま継続した。趙高はやがて丞相李斯をも讒言により処刑して権力を独占し、群臣の忠誠を試すため鹿を馬と言い張ったという「指鹿為馬」の故事はこの頃の専横ぶりを象徴する逸話として知られる。前209年、辺境警備に徴発された農民陳勝・呉広が、大雨で期日に間に合わず処刑される運命に直面したことから蜂起すると、反乱はまたたく間に各地へ広がり、項羽・劉邦をはじめとする反秦勢力が次々と挙兵して秦崩壊への流れを決定づけた。
追い詰められた趙高は、責任を胡亥に押し付けるべく自害に追い込み、代わって子嬰を王として擁立するが、子嬰は即位早々に趙高を誅殺した。しかしもはや大勢は覆せず、いち早く都咸陽へ迫った劉邦に子嬰が降伏したことで、秦は建国よりわずか15年、始皇帝の統一からはわずか十数年で滅亡した。その後、項羽と劉邦は天下の覇権を争う楚漢戦争へと突入し、最終的に勝利した劉邦が漢王朝を開くことになる。
「秦の滅亡・鴻門の会」を年表で読む →始皇帝の統一事業を支え、あるいはその死後に帝国を揺るがすことになった主な人物です。
元は大商人。人質だった始皇帝の父を秦に帰国・即位させた黒幕とされ、幼くして即位した始皇帝の後見として長らく実権を握った。始皇帝の親政開始後に失脚し、自ら命を絶った。
法家思想を実務に落とし込んだ始皇帝の腹心。郡県制の導入や度量衡・文字の統一、焚書坑儒を推し進めた中心人物だが、始皇帝の死後は趙高に取り込まれ、最後は趙高の讒言により処刑された。
北方の匈奴を討って万里の長城の修築を指揮した秦の名将。始皇帝の死後、偽の遺詔により自害を強いられ、長城建設の労苦を思い「天に対して罪がある」と嘆いたと伝えられる。
始皇帝の長男で、焚書坑儒を諫めたとされる温厚な人物。本来の後継候補だったが、始皇帝の死後に趙高・李斯が仕組んだ偽の遺詔により自害を命じられ、弟の胡亥に帝位を奪われた。
始皇帝の末子。趙高の擁立で即位すると趙高の傀儡と化し、重税と圧政を続けた末、各地の反乱の責任を問われる形で趙高に自害へ追い込まれた。
始皇帝の死に際して李斯と共謀し遺詔を偽造した張本人。胡亥擁立後は権力を恣にし、鹿を馬と言い張って群臣の忠誠を試した「指鹿為馬」の故事でも知られる。最後は自らが擁立した子嬰に誅殺された。
始皇帝の生涯に関わる出来事を、年表の詳細ページとあわせて紹介します。
紀元前221年に六国を滅ぼして中国史上初めて天下を統一し、「皇帝」の称号を創始した秦の王です。度量衡・文字・貨幣の統一、 郡県制の導入、万里の長城の修築などを行い、以後の中国の統治体制の原型を作りました。
焚書坑儒による思想統制や、長城・阿房宮・陵墓建設のための過酷な労役に民衆を動員したことが主な理由です。統一そのものの 功績は大きいものの、統治手法の苛烈さから評価が大きく分かれています。
『史記』は病没とのみ記しており、死因を明記していません。不老不死を求めて水銀を含む仙薬を飲み続けた中毒死説が有力視 されていますが、過労や持病による病死説もあり確定していません。
秦の出来事は年表ページで、始皇帝陵・兵馬俑にまつわる謎はより詳しい別記事でも紹介しています。