南
1127 – 1279

南宋の出来事一覧

都を追われた宋の皇族は、江南に新たな都・臨安を築き、命脈を保つ。岳飛ら忠臣の奮戦もむなしく、金への臣従を余儀なくされながらも、経済と文化はむしろ江南の地でいっそう爛熟していく。だが北方に台頭したモンゴルの前に、この王朝もまた終焉を迎える。

1127南宋の建国(高宗こうそう)
王朝

靖康の変で徽宗・欽宗父子ら皇族の多くが金軍に連行されるという未曾有の国難のなか、難を逃れた第九子趙構が即位し高宗となる。当初は応天府(現・河南省商丘)で即位したが金軍の追撃を受けて南へ転じ、幾度もの避難を経て最終的に臨安(現・杭州)に落ち着いた。臨安はあくまで仮の都「行在」と位置づけられ、正式な遷都は宣言されなかったが、これは失地回復の意志を示す政治的建前であったとされる。江南は唐末以来の開発で農業生産力・商業経済が高く、南宋はこの地の富を背景に北宋を凌ぐほどの経済的繁栄を築いていくことになる。

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1141岳飛がくひの死・金との和議
戦争・動乱

岳飛は農民出身ながら卓越した統率力で「岳家軍」と呼ばれる精鋭を育て上げ、金軍を幾度も撃退して北伐を目前にしていたとされる。しかし主戦派の岳飛は、金との和平を優先する高宗・宰相秦檜の路線と対立し、「莫須有(あったかもしれぬ)」というあいまいな罪状のもとで投獄され、獄中で命を落とした。同年結ばれた紹興の和議では、淮河を国境として南宋が金に対し臣下の礼をとり、毎年多額の銀・絹を歳幣として贈ることが定められ、南宋は屈辱的ながらも長期の平和を得ることになる。岳飛の死は後世「忠臣が奸臣に陥れられた悲劇」として語り継がれ、彼を祀る杭州西湖畔の岳王廟には、今も秦檜夫妻を象った跪像が置かれ、参拝者から唾を吐きかけられる対象になっているという逸話が残る。

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12世紀朱子学の大成(朱熹しゅき)
文化

南宋の思想家朱熹は、北宋の程顥・程頤兄弟が説いた学統を継承し、「理」と「気」の関係を軸に宇宙の成り立ちから人間の倫理までを体系的に説明する壮大な哲学体系を築き上げた。彼が編んだ『論語』『孟子』『大学』『中庸』の四書に対する注釈書『四書集注』は、元代以降の科挙において公式の解釈として採用され、以後約600年にわたり官吏登用試験の根幹をなす存在となった。晩年には江西の白鹿洞書院を再興して自ら講学にあたり、規律と師弟関係を重んじる書院教育の模範を確立したことでも知られる。この朱子学は李氏朝鮮では国教的な地位を得て両班社会の倫理規範となり、日本でも江戸幕府の官学として林羅山らによって受容されるなど、東アジア全域の思想・統治観に長期にわたる影響を及ぼすことになった。

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1234金の滅亡
戦争・動乱

チンギス・ハン以来急速に台頭したモンゴル帝国の攻勢を受け、かつて北宋を滅ぼした金は本拠を汴京(開封)からさらに南の蔡州へと追い詰められていた。南宋は北宋滅亡の宿怨を晴らす好機と捉え、モンゴルと同盟を結んで金を挟撃する「聯蒙滅金」の道を選ぶ。1234年、蔡州が陥落すると金の最後の皇帝哀宗は自害し、約120年続いた金は滅亡した。しかしこの選択は、約100年前に北宋が遼を滅ぼすため金と結び、結果的に金に滅ぼされた「聯金滅遼」の失敗をなぞるものであったとも評され、南宋は強大なモンゴルと直接国境を接することになり、以後の存亡の危機を早める皮肉な結果を招くことになった。

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1276臨安りんあんの陥落
戦争・動乱

クビライの命を受けた元の将軍伯顔(バヤン)率いる大軍が長江を渡って南下し、南宋の防衛線は各地で相次いで崩壊していった。宰相文天祥らの抗戦の努力もむなしく、1276年にはわずか5歳であった恭帝と謝太后が降伏し、都臨安は無血のうちに元軍の占領するところとなる。捕らえられた文天祥はその後も元への服属を拒み続け、獄中で詠んだ「正気の歌」は後世忠節の象徴として広く愛誦されることになった。臨安陥落後も陸秀夫・張世傑ら忠臣たちは幼い端宗、続いて衛王昺を新たな皇帝として擁立し、華南沿岸を転々としながらなお三年近くにわたり抵抗を続けることになる。

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1279崖山がいざんの戦い・南宋滅亡
戦争・動乱

1279年、広東沖の崖山(現・広東省江門市新会区)において、張世傑の率いる南宋水軍と元将張弘範の艦隊が最後の決戦に及んだ。数の上でも戦術面でも劣勢であった南宋軍は総崩れとなり、丞相陸秀夫はもはやこれまでと悟ると、わずか8歳の幼帝衛王昺を背負って海に身を投げたと伝えられる。この後を追うように多くの後宮・臣下・兵士らも入水し、その数は伝承では十万に及んだともいわれるが、誇張を含む可能性も指摘されている。こうして約320年続いた宋王朝は完全に滅亡し、中国史上初めて異民族王朝(元)が中国全土を統一支配するという新たな時代の幕が開かれることになった。

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