岳飛は農民出身ながら卓越した統率力で「岳家軍」と呼ばれる精鋭を育て上げ、金軍を幾度も撃退して北伐を目前にしていたとされる。しかし主戦派の岳飛は、金との和平を優先する高宗・宰相秦檜の路線と対立し、「莫須有(あったかもしれぬ)」というあいまいな罪状のもとで投獄され、獄中で命を落とした。同年結ばれた紹興の和議では、淮河を国境として南宋が金に対し臣下の礼をとり、毎年多額の銀・絹を歳幣として贈ることが定められ、南宋は屈辱的ながらも長期の平和を得ることになる。岳飛の死は後世「忠臣が奸臣に陥れられた悲劇」として語り継がれ、彼を祀る杭州西湖畔の岳王廟には、今も秦檜夫妻を象った跪像が置かれ、参拝者から唾を吐きかけられる対象になっているという逸話が残る。
→