前
206 BC – 8 AD

前漢の出来事一覧

始皇帝の帝国が崩れ去った後、天下を制したのは貴族ではなく、一介の農民出身の男・劉邦であった。武帝の代には版図を西域まで広げ、シルクロードが開かれ、儒教が国家の思想として定められる——四百年におよぶ「漢」の名は、こうして中国そのものの代名詞となった。

202 BC劉邦りゅうほう、漢を建国
王朝

秦滅亡後に勃発した項羽との数年に及ぶ楚漢戦争を制した劉邦は、垓下の戦いで項羽を追い詰めて自害させ、紀元前202年に皇帝に即位して漢王朝を開いた。農民出身という中国史上異例の低い身分から身を起こし皇帝の座にまで昇り詰めた点は、以後の中国史における「布衣の天子」の先駆例として繰り返し語られることになる。当初は洛陽に都を置いたが、まもなく関中の要害の地である長安(現・西安)へ遷都し、秦の旧制度を引き継ぎながらも一部に封建制を復活させる郡国制を採用するなど、統治体制を模索した。功臣であった韓信・彭越・英布ら諸侯王は建国後まもなく次々と粛清され、皇帝権力の強化が図られていく。劉邦が築いた漢王朝は前漢・後漢を合わせて400年余りにわたって続き、以後の中国人が自らを「漢民族」「漢字」と呼ぶ淵源ともなった。

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180 BC呂后りょこう専権の終焉
王朝

劉邦の皇后であった呂雉(呂后)は、劉邦の死後に幼い恵帝を擁して実権を握り、恵帝の死後もみずからの一族である呂氏の諸侯を次々と要職に就けて専横を強めていった。政敵であった劉邦の寵妃戚夫人とその子を惨殺した逸話は、呂后の苛烈な人物像を伝えるものとして後世に広く知られている。紀元前180年に呂后が没すると、劉氏の重臣たちと軍を掌握していた太尉周勃・丞相陳平らが結束してクーデターを起こし、呂氏一族を一掃した。その後、劉邦の子のうち温厚とされた代王劉恒が諸大臣の合議によって皇帝に迎えられ、文帝として即位する。文帝とその子景帝の治世は倹約と休養政策により国力が大きく充実し、「文景の治」と呼ばれる前漢屈指の安定期を築くことになった。

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154 BC呉楚七国ごそしちこくの乱
戦争・動乱

景帝の御史大夫晁錯が諸侯王の領地を削減する「削藩策」を進めたことに反発し、呉王劉濞を中心に楚・趙など七つの諸侯国が連合して反乱を起こした事件である。晁錯は反乱の口実を絶つために処刑されるが反乱はおさまらず、朝廷は将軍周亜夫を派遣して鎮圧にあたらせ、挙兵からわずか三か月ほどで反乱軍は壊滅した。この結果、反乱に加わった諸侯国は次々と取り潰され、あるいは大幅に領地を削減されて、諸侯王の勢力は決定的に弱体化することとなった。以後、諸侯国の官吏任命権も中央が握るようになり、劉邦以来続いていた郡国制は事実上郡県制に近い中央集権体制へと移行していく。この事件は前漢の中央集権化が完成へ向かう大きな画期として位置づけられている。

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141 BC武帝ぶていの即位
王朝

16歳で即位した武帝は、54年に及ぶ在位期間を通じて前漢の国力を頂点にまで押し上げた皇帝である。対外的には衛青・霍去病らの将軍を用いて長年脅威であった匈奴を北方へ大きく退け、南越や朝鮮半島の衛氏朝鮮を征服するなど、漢の版図をかつてなく拡大した。内政面では郡国制下で依然力を持っていた諸侯王の勢力を「推恩の令」により実質的に解体し、塩・鉄の専売制など国家財政の強化策も次々と打ち出している。学問の面では董仲舒の献策を容れて儒学を国家の正統思想とし、張騫の派遣によって西域への道も開かれるなど、政治・軍事・思想のあらゆる面で漢代の枠組みを決定づけた治世であった。一方で度重なる外征と大規模事業は国庫を大きく消耗させ、晩年には各地で農民反乱が頻発するなど、その積極政策の反動も生じることになる。

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138 BC張騫ちょうけん、西域へ
対外関係

匈奴を挟撃する同盟相手を求めて大月氏へ向かった張騫であったが、道中で匈奴に捕らえられ十年以上抑留されるなど苦難の連続であった。ようやく脱出して大月氏にたどり着いたものの、すでに匈奴と戦う意思を失っていた大月氏から同盟の約束は得られず、当初の外交目的そのものは達成できなかった。しかしこの旅を通じて張騫がもたらした西域諸国に関する詳細な地理・物産・風俗の情報は、武帝の西域政策に決定的な影響を与え、以後の西域経営と交易路開拓の出発点となった。この交易路は後に「シルクロード(絹の道)」と呼ばれるようになり、中国と中央アジア・西アジア、ひいてはローマまでをも結ぶ東西交流の大動脈として機能していくことになる。張騫自身も帰国後に再度西域へ派遣されるなど、生涯を通じて漢の対外交流の礎を築いた人物として評価されている。

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134 BC儒教の国教化
文化

儒学者董仲舒が武帝に上奏した「天人三策」の中で、儒学以外の諸学派を退け儒学のみを国家の正統な学問とすべきと説いたことを契機に、儒学が事実上の国教としての地位を確立していった出来事である。董仲舒は陰陽五行説を取り込みながら儒学を再構成し、天子の統治を天の意思と結びつける「天人相関説」を唱えて、皇帝権力に理論的な裏付けを与えたことでも知られる。武帝はこの献策を受けて五経博士を置き、官吏登用においても儒学の素養が重視されるようになったことで、儒学は単なる一学派から国家運営を支える体制教学へと変質していった。この転換は、それまで諸子百家が並び立っていた思想状況を大きく塗り替えるものであり、以後2000年近くにわたり中国の政治・社会・教育のあり方を規定し続けることになる。ただし在野での学問の多様性自体が完全に失われたわけではなく、道家・法家的な統治手法も実務面では併用され続けた点には留意が必要である。

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