「中国五千年史」- 新石器時代から現代まで、王朝・人物・出来事を年表と地図で辿る。日本史との対照や、歴史小説・漫画の紹介も
宦官とは、去勢されたうえで皇帝や後宮に仕えた男性のこと。後宮の女性たちと接しても問題が起きないよう去勢された者だけが宮殿の奥に入ることを許され、皇帝の身の回りの世話や命令の取り次ぎを担った。皇帝にもっとも近い存在だったため、ときに皇帝を操って国を動かし、王朝の滅亡の原因になることもあった。中国では遅くとも周の時代から清の終わりまで、二千年以上にわたって存在した。
始皇帝の死を隠し、秦を内側から崩した
始皇帝に仕えた側近で、前210年に始皇帝が旅の途中で死ぬと、丞相李斯と組んでその死を隠し、遺言を書きかえて末子の胡亥を二世皇帝に立てた(沙丘の謀)。正統な後継者の扶蘇は自害に追いこまれ、のちに李斯も殺された。鹿を「馬」だと言って献上し、「鹿だ」と正直に答えた家臣を陥れた「指鹿為馬」の話は、日本語の「馬鹿」の語源の一つともいわれる。最後は自分が立てた子嬰に殺された。
紙の作り方を改良した宦官
後漢の和帝に仕えた宦官で、宮中の道具を作る尚方の長官を務めた。105年、木の皮や麻くず、古い漁網から丈夫な紙を作る方法を皇帝に献上し、その紙は「蔡侯紙」と呼ばれた。紙そのものはそれ以前からあったが、安く大量に作れるようにした功績から、中国の四大発明の一つ「製紙法」の立役者とされる。宦官が権力争いだけでなく、技術や文化の担い手でもあったことを示す人物である。
皇帝を操り、三国志の乱世の引き金になった
後漢の後半は、皇后の一族(外戚)と宦官が交互に権力を握る争いが続いた。159年、桓帝は宦官の力を借りて外戚梁冀を倒し、以後宦官が政治を左右するようになる。宦官を批判した官僚や学者たちは「党人」として弾圧された(党錮の禁)。次の霊帝は張譲・趙忠ら「十常侍」と呼ばれる宦官を「わが父、わが母」と呼ぶほど信頼した。189年、宦官を除こうとした外戚何進が逆に殺されると、袁紹らが宮中に攻め込んで2000人以上の宦官を殺した。この混乱に乗じて董卓が都に入り、時代は三国志の乱世へと進んでいく。
玄宗にもっとも信頼された側近
玄宗が即位する前から仕え、皇帝に届く書類はまず高力士が目を通すほどの信頼を得た。皇太子までが「兄」と呼んだという。楊貴妃を玄宗に引き合わせた一人ともされ、酔った李白が高力士に靴を脱がせたという有名な逸話もある。安史の乱で玄宗が都を逃れたときも付き従い、馬嵬で楊貴妃に死を賜る役目を負った。玄宗の死を知ると嘆き悲しみ、まもなく自らも世を去った。忠臣型の宦官の代表として語られる。
大船団を率いてアフリカまで航海した
雲南のイスラム教徒の家に生まれ、少年時代に明軍の捕虜となって宦官にされた。燕王(のちの永楽帝)に仕えて靖難の変で手柄を立て、鄭の姓を賜わった。1405年から7回にわたり、数十隻・2万人を超える大船団を率いて東南アジア、インド、アラビア半島、アフリカ東岸まで航海し、各地の国に明への朝貢を促した。コロンブスより80年以上早い、当時世界最大の航海だった。
皇帝を戦場に連れ出し、捕虜にさせた
正統帝(英宗)の幼いころの教育係で、即位後は皇帝の信頼を背景に政治を思うままにした。1449年、モンゴル系のオイラトが攻めてくると、軍事の経験がないまま皇帝の親征を強くすすめた。準備不足の明軍は土木堡で大敗し、皇帝はオイラトの捕虜となった(土木の変)。王振自身もこの混乱の中で殺された。皇帝が敵の捕虜になるという、明の歴史でも最大級の屈辱だった。
「九千歳」と呼ばれ、明の滅亡を早めた
賭博の借金から逃れるため自ら宦官になったといわれる。政治に関心のない天啓帝のもとで実権を握り、東廠を使って反対派の東林党の官僚たちを次々と投獄・拷問した。皇帝の「万歳」に次ぐ「九千歳」と呼ばれ、全国に魏忠賢を生きながら祀る祠(生祠)が建てられるほどだった。1627年、次の崇禎帝が即位するとすぐに罷免され、自ら命を絶った。しかし政治の混乱はおさまらず、17年後に明は滅亡した。
西太后にもっとも近かった宦官
清は明の失敗に学び、宦官が政治に口を出すことを厳しく禁じた。1869年には、西太后のお気に入りだった宦官安徳海が、許可なく都を出たとして地方長官に処刑されている。その後、西太后に仕えて寵愛を受けたのが李蓮英で、宦官としては異例の二品の位を与えられた。西太后の髪を結う腕で取り立てられたという話もある。ドラマなどでは悪役として描かれることが多いが、表立って政治を動かした記録は少ない。
宦官は皇帝の生活の世話から書類の取り次ぎまでを担い、一日中皇帝のそばにいた。幼い皇帝にとっては育ての親のような存在で、子孫を残せないため自分の家を興して王朝を乗っ取る心配も少ないと考えられた。そのため皇帝は、力をつけた外戚や官僚に対抗する味方として宦官を頼り、宦官は皇帝の命令を伝える立場を利用して権力をふくらませていった。
古くは宮刑という刑罰や戦争の捕虜が宦官にされたが、明・清の時代には、貧しい家の男性が出世や生活のために自ら志願するケースが多くなった。宮刑を受けた人としては、『史記』を書いた司馬遷が有名で、匈奴に降った将軍李陵をかばって皇帝の怒りを買い、死刑の代わりに宮刑を選んで歴史書を完成させた。
日本は遣唐使を通じて律令制など唐の制度を多く取り入れたが、宦官と科挙は取り入れなかった。日本の宮中では女官が天皇の身の回りの世話や命令の取り次ぎを担い、その役目を宦官が担う必要がなかったことや、牧畜の文化が薄く去勢の習慣自体がなかったことが理由として挙げられる。
宦官が仕えた後宮の女性たちの位や、宦官と権力を争った官僚を選ぶ科挙のしくみも解説しています。