魏の実権を握った司馬一族が、ついに三国を統一する。だが束の間の平和は長くは続かない。皇后の専横に端を発した「八王の乱」が同族相食む争いへと発展し、統一王朝はわずか五十年で瓦解へと向かう。
魏では司馬懿・司馬師・司馬昭の三代にわたり実権が徐々に司馬一族へと移り、263年の蜀漢征討の成功で司馬昭の権威は決定的なものとなっていた。その子司馬炎は266年に魏の元帝から禅譲を受けて皇帝に即位し、国号を「晋」と定めて洛陽を都とした。かつて曹丕が後漢献帝から禅譲を受けて魏を建てた経緯を、今度は司馬氏が魏に対して踏襲する形となり、権力の簒奪が形式的な「禅譲」を経て行われるという後漢末以来の政権交代のパターンがここでも繰り返されることになった。即位当初はまだ南に呉が独立を保っていたため天下は完全には統一されておらず、司馬炎はその後も呉への圧力を強めながら統一の機会をうかがい続けた。西晋の建国は、後漢末以来続いてきた分裂状況にひとまず終止符を打つ布石となった重要な出来事である。
→280年、西晋は王濬率いる水軍を長江に進めるなどして最後まで残っていた呉を攻め滅ぼし、後漢末の黄巾の乱以来約1世紀近くにわたり分裂していた中国をついに再統一した。三国鼎立の一角を占め続けた呉の滅亡により、魏・蜀・呉それぞれが独自の年号や制度を掲げて並び立った三国時代は名実ともに終わりを告げることになる。統一を果たした武帝司馬炎は占田・課田法など農地制度の整備や税制の改革を進め、一時的には社会が落ち着きを取り戻す局面も見られた。しかしその一方で武帝は多数の皇族を各地に王として封じて軍事力を持たせる政策をとっており、これが後に皇族同士の権力争いを招く火種として温存されることになる。中国が再びひとつにまとまった喜びも束の間、統一からわずか十数年でこの火種は現実の内乱へと発展し、西晋の安定は長くは続かなかった。
→西晋の武帝が没した後を継いだ恵帝は暗愚であったと伝えられ、その皇后賈南風が実権を握ろうとしたことをきっかけに、各地に封じられていた皇族の諸王が次々と皇位・権力をめぐる争いに介入していった。汝南王・楚王・趙王・斉王・長沙王・成都王・河間王・東海王ら計八人の王が入り乱れて争ったことから「八王の乱」と呼ばれ、291年の勃発から306年頃まで断続的に10年以上にわたって続く長期の内乱となった。この争乱では首都洛陽をはじめ各地が幾度も戦火に見舞われ、諸王はしばしば北方や西方の異民族の軍事力を自陣営に取り込んで戦ったため、結果的に異民族勢力が華北の政治・軍事に深く関与する契機を与えることにもなった。内乱の過程で西晋の統治機構と経済力は急速に消耗し、せっかく達成された天下統一の成果はわずか数十年で無に帰していくことになる。この混乱こそが、続く五胡十六国という異民族政権乱立の時代を招く直接の背景となった。
→八王の乱で西晋の国力が著しく消耗する中、南匈奴の単于の血を引く劉淵は、八王の一人に軍事協力する形で勢力を蓄えたのち、304年に自立して皇帝を称し国号を「漢」(後に前趙と呼ばれる)と定めた。匈奴出身の劉淵があえて「漢」を名乗ったのは、自らを前漢・蜀漢の後継者と位置づけることで中国内の統治の正統性を主張しようとする意図があったとされる。この劉淵の自立を皮切りに、それまで西晋の統治下、あるいはその周辺で暮らしていた匈奴・鮮卑・羯・氐・羌という五つの異民族(五胡)が次々と華北各地で独自の政権を樹立していくことになる。西晋はこれら新興勢力の伸長を抑えるだけの軍事力をすでに失っており、華北の政治的主導権は急速に異民族政権の側へと移っていった。この動きはやがて西晋を滅亡に追い込み、以後1世紀以上にわたり華北で異民族政権が興亡を繰り返す五胡十六国時代へとつながっていく。
→劉淵の後を継いだ劉聡は、将軍石勒らに命じて西晋への攻勢を強め、311年に都洛陽を包囲・陥落させた。この際、都では略奪と虐殺が横行し、西晋の皇帝懐帝は捕らえられて漢(前趙)の都平陽へ連行され、後に殺害されるという屈辱的な結末を迎えることになる。この事件は当時の元号にちなんで「永嘉の乱」と呼ばれ、多数の官僚・貴族やその配下の民衆が戦乱を逃れて江南へ大規模に避難する「衣冠南渡」と呼ばれる移住の波を引き起こした。この南への人口移動は、それまで開発の遅れていた江南地方における農業開発や経済発展を促す結果となり、後の中国における経済的中心の南方移動の出発点の一つともなったと評価されている。一方、洛陽を失った西晋の残存勢力は長安へと逃れて命脈を保とうとするが、その支配はすでに華北の一部にとどまるまでに縮小していた。
→永嘉の乱で懐帝が連行された後、洛陽陥落を逃れた一部の皇族・重臣は長安で愍帝を擁立し、かろうじて西晋の命脈を保とうとした。しかし長安の防衛力はすでに乏しく、食糧も欠乏する中、316年に漢(前趙)の軍が再び攻め寄せると、愍帝はついに抵抗を諦めて降伏を選んだ。これにより280年の呉平定による天下統一からわずか37年で西晋は滅亡し、華北における統一政権は完全に失われることになった。愍帝もまた捕らえられて平陽に連行され、屈辱的な扱いを受けた末に処刑されたと伝えられている。西晋滅亡後、皇族の一人司馬睿が江南の建康で東晋を再建することで漢族王朝の命脈自体は保たれるが、華北の地は以後1世紀以上にわたり五胡十六国と呼ばれる異民族政権の興亡が続く分裂状態に置かれることになる。
→