三
220 – 280

三国の出来事一覧(三国志)

曹操、劉備、孫権——三人の英雄が天下を三分した、中国史上もっとも語り継がれる乱世である。赤壁の炎、五丈原に散った諸葛亮の夢。だが最後に笑ったのは、この三人の誰でもなかった。

208赤壁せきへきの戦い
戦争・動乱

華北をほぼ統一した曹操は、南下して荊州を制圧した勢いのまま長江を渡り天下統一を目指すが、危機感を強めた孫権と、荊州を追われて身を寄せていた劉備が同盟を結んでこれに対抗した。兵力では圧倒的に優勢であった曹操軍であったが、慣れない船上戦や疫病の流行に苦しめられていたとされ、周瑜配下の黄蓋が偽りの降伏を装って接近し火船を放つ奇計により、長江に停泊していた曹操の水軍は大混乱に陥って壊滅的な打撃を受けたと伝えられる。この敗北により曹操は華北へ撤退を余儀なくされ、南方への勢力拡大の野望はここで頓挫することになった。結果として曹操は華北を、孫権は江南を、劉備は荊州・後の益州を、それぞれ確保する形勢が固まり、これが魏・呉・蜀による三国鼎立の構図を決定づける転機となった。この戦いは『三国志演義』において諸葛亮や周瑜の智謀が縦横に描かれる最大の見せ場の一つとされ、後世の中国文化に絶大な影響を与え続けている。

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220魏の建国(曹丕そうひ)
王朝

父曹操は生涯皇帝を称することなく後漢の丞相・魏王として実権を握るにとどまったが、その死後まもなく後を継いだ曹丕は献帝に禅譲を迫り、220年に皇帝へ即位して魏を建てた。都は後漢以来の洛陽に置かれ、父の代から積み重ねられてきた華北統一の実績を土台に、名実ともに新王朝としての体裁を整えることになる。これにより高祖劉邦の建国以来、前漢・後漢を通じて400年余り続いた漢王朝は名実ともに終焉を迎えることになった。禅譲を受けた献帝は殺害されることなく山陽公に封じられ、その後も比較的穏やかな余生を送ったと伝えられており、この処遇は後の王朝交代における一つの先例ともなった。曹丕は文才にも優れた人物として知られ、みずから著した文学論『典論』論文篇は中国最初期の本格的な文学評論として高く評価されている。魏の建国を皮切りに、翌221年には劉備が蜀漢を、222年には孫権が呉を、それぞれ皇帝を称して独立を宣言し、ここに三国が並び立つ時代が正式に幕を開けることになった。魏は後の265年に司馬炎に禅譲するまでの約45年間、三国のうち最大の国力を誇る国として華北を統治し続けた。

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221蜀漢の建国(劉備りゅうび)
王朝

前漢の景帝の子孫を称する劉備は、若くして各地を転戦しながらも独自の勢力基盤を持てずにいたが、諸葛亮を軍師に迎え荊州・益州を確保したことでようやく確固たる地盤を築いた。221年、曹丕の魏建国と後漢滅亡の報を受けると、劉備は漢王室の正統な後継者を自任して皇帝に即位し、成都を都に蜀(蜀漢)を建てた。これにより自らを漢の正統な継承者と位置づけ、簒奪者と見なす魏に対する対決姿勢を鮮明にしたのである。即位直後には義兄弟であった関羽の仇討ちを名目に呉へ出兵するが、夷陵の戦いで陸遜率いる呉軍に大敗を喫し、まもなく病没してしまう。劉備の死後は幼い劉禅が後を継ぎ、丞相諸葛亮が全権を委ねられて国政を主導していくことになる。

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222呉の建国(孫権そんけん)
王朝

孫権は父孫堅、兄孫策が江東の地に築いた勢力基盤を若くして受け継ぎ、周瑜・魯粛・呂蒙といった有能な家臣団の補佐を受けながら江南の支配を着実に固めていった。赤壁の戦いや、関羽から荊州を奪った戦いなど、魏・蜀それぞれとの間で巧みに離合集散を繰り返しながら自国の勢力を保った点に孫権の外交手腕がうかがえる。222年にはまず「呉王」を称し、229年に至って正式に皇帝に即位、建業(現・南京)を都と定めて名実ともに三国の一角を占める国家として確立した。江南地方の開発を積極的に推進したことは、それまで政治の中心から離れていた長江以南の経済発展を促し、後世の中国における南北の経済的重心の移動にもつながる先駆けとなったと評価されている。孫権の治世は三国の君主の中でも最も長く、その安定した統治により呉は三国中最後まで存続する国となった。

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234五丈原ごじょうげんの戦い
戦争・動乱

劉備の死後、丞相として蜀漢の全権を委ねられた諸葛亮は、国力で大きく劣る魏に対して「漢室の再興」を掲げ、227年の『出師表』を皮切りに以後たびたび北伐を敢行した。234年の第五次北伐では、渭水南岸の五丈原に布陣して魏の司馬懿と長期にわたり対峙するが、決定的な戦機をつかめないまま両軍のにらみ合いが続いた。諸葛亮は屯田策により長期戦に備えるなど周到な準備を進めていたが、過労が重なったためか陣中で病に倒れ、そのまま没したと伝えられている。総司令官を失った蜀軍はやむなく撤退し、これ以後、蜀漢が魏に対して大規模な攻勢に出ることは事実上なくなった。諸葛亮の忠誠と非業の最期は、後世「鞠躬尽瘁、死して後已む(力の限りを尽くし、死に至るまでやめない)」という言葉とともに、理想的な忠臣の姿として長く語り継がれることになる。

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263蜀漢の滅亡
戦争・動乱

諸葛亮の死後、姜維がその北伐路線を受け継いで魏への攻勢を続けたが、大きな戦果を挙げられないまま国力をいたずらに消耗させ、蜀漢の政治は次第に宦官黄皓の専横などにより乱れていった。263年、魏の実権を握っていた司馬昭は鄧艾・鍾会らに大軍を率いさせて蜀漢征討に乗り出し、鄧艾の部隊が険しい山道を踏破して成都に迫る奇襲策を成功させると、皇帝劉禅はほとんど抵抗することなく降伏を選んだ。これにより劉備の建国から43年で蜀漢は滅亡し、三国の一角が初めて消え去ることになった。降伏後、魏に移された劉禅が「この地の楽しさを思い、蜀のことなど思い出さない(楽不思蜀)」と語ったという逸話は、亡国の君主の暗愚さを象徴する故事として後世広く知られている。蜀漢の滅亡はまもなく訪れる魏晋交代、そして呉の滅亡による三国時代終焉へと続く一連の流れの端緒となった。

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