新
8 AD – 23 AD

新(王莽)の出来事一覧

漢王朝の外戚として権力を握った王莽は、ついに帝位を簒奪し、みずから新王朝を開く。理想に燃えた復古的な大改革は、しかし現実の前にことごとく空転し、わずか十五年で天下は再び乱世へと逆戻りする。

AD 8王莽おうもう、皇帝に即位
王朝

前漢の元帝の皇后王政君の甥にあたる王莽は、外戚として長年にわたり朝廷内で権勢を築き、平帝の死後は幼い孺子嬰を摂政として実権を掌握した。やがて各地から瑞祥(吉兆)が相次いで奏上されるという形式を整えたうえで、紀元8年に孺子嬰から禅譲を受けて皇帝に即位し、国号を「新」と定めて前漢を終わらせた。王莽は儒学の経典、特に『周礼』に描かれた周代の理想的な統治を復興することを掲げ、次々と急進的な改革に着手していく。学識に優れ清廉な人物として当初は高く評価されていたが、即位後の改革は現実離れしたものが多く、かえって社会の混乱を深める結果を招くことになった。中国史上、禅譲という平和的な形式によって王朝が交代した最初期の事例としても知られている。

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AD 9復古的な土地・貨幣改革
文化

王莽は『周礼』が説く理想を実現しようとして、全国の土地を「王田」と称して国有化し私的な売買を禁じたほか、奴婢の売買も制限するなど、急進的な社会経済改革を次々と断行した。貨幣制度についても、それまで流通していた五銖銭を廃止して独自の新貨幣を発行し、その後も短期間のうちに何度も貨幣の種類や交換比率を改めるという混乱した政策を繰り返した。これらの改革は理念こそ壮大であったものの現実の経済実態を無視したものが多く、かえって流通の混乱と物価高騰を招き、農民や商人など社会のあらゆる層から強い反発を買うことになった。結局、王田制はわずか数年で撤回に追い込まれ、度重なる貨幣改鋳も民衆生活を疲弊させるだけに終わり、王莽政権に対する不信を決定的なものにしていく。この時期に鋳造された「一刀平五千」「布泉」などの新貨幣は、意匠の美しさから現在も貨幣史上の逸品として知られている。

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AD 18赤眉せきびの乱
戦争・動乱

度重なる貨幣改鋳による経済混乱に加え、黄河の氾濫による飢饉が重なった山東地方で、樊崇を中心とする農民たちが蜂起した反乱である。敵味方を区別するため眉を赤く染めたことからこの名で呼ばれるようになったと伝えられ、当初は食料の略奪を目的とした素朴な集団であったが、新への不満を背景に急速に勢力を拡大していった。新の正規軍をたびたび打ち破りながら勢力圏を広げ、後には長安にまで進撃して一時的に政権を樹立するに至るが、明確な統治の理念や体制を欠いていたため長くは続かなかった。最終的には後漢を建てた光武帝劉秀の勢力に降伏し、反乱そのものは終息する。緑林の乱とともに、新末の社会混乱を象徴する二大農民反乱として位置づけられている。

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AD 17緑林りょくりんの乱
戦争・動乱

湖北省の緑林山を拠点に、王匡・王鳳らが飢饉に苦しむ農民を集めて蜂起した反乱で、赤眉の乱とほぼ同時期に発生し新末の混乱を加速させた勢力の一つである。当初は山中に立てこもる小規模な集団に過ぎなかったが、疫病の流行を機に勢力が分散したのち、その一部が後に劉秀・劉縯兄弟ら漢王室の血を引く豪族と結びついて政治的な性格を強めていった。これにより緑林軍は単なる流民集団から新打倒を掲げる反乱勢力へと変質し、更始帝劉玄を擁立して一時的な政権を樹立するまでに至る。この緑林系の勢力こそが、後に光武帝として即位する劉秀が頭角を現す母体となった点で、後漢建国史における重要な位置を占めている。新末の動乱は、赤眉・緑林という二つの反乱勢力の消長を軸に展開していったといえる。

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AD 23昆陽こんようの戦い
戦争・動乱

更始帝政権のもとで頭角を現しつつあった劉秀が、王莽が編成した数十万ともいわれる大軍をわずか一万に満たない寡兵で打ち破った戦いである。昆陽城に籠城する味方を救援するため劉秀はみずから決死の突撃を敢行し、さらに暴風雨などの偶然も重なって新軍は総崩れとなり、壊滅的な打撃を被ったと伝えられる。この敗北により新の主力軍事力は事実上失われ、各地の反乱勢力の勢いを止める術を王莽政権は失うことになった。中国史上でも屈指の寡兵による大逆転劇として知られ、この戦いでの活躍が劉秀の名声を大きく高め、後の後漢建国への足がかりとなった点でも重要な戦いである。新にとってはこの敗戦が事実上の命取りとなり、以後政権は急速に瓦解へと向かっていく。

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AD 23王莽おうもうの死・新の滅亡
戦争・動乱

昆陽の戦いでの大敗を経て新政権の権威は完全に失墜し、更始帝配下の軍勢が長安に迫ると都は陥落、王莽は宮中に追い詰められて殺害された。その遺体は怒った民衆によって切り刻まれたと伝えられ、最後まで理想を貫こうとした皇帝の末路は凄惨なものであった。こうして紀元8年の建国からわずか15年で新王朝は滅び、中国は再び前漢以来の「漢」の国号を掲げる勢力によって統一へ向かうことになる。もっとも新の滅亡後もただちに安定が回復したわけではなく、更始帝政権も内紛によりまもなく崩壊し、群雄割拠の状態がしばらく続いた。最終的にこの混乱を収めたのが緑林軍出身の劉秀であり、紀元25年に彼が皇帝に即位して後漢を開くことで、ようやく漢王朝の再興が果たされることになる。

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