184年の黄巾の乱に始まり、280年の天下統一で幕を閉じるまで——三国時代は中国史上もっとも語り継がれる乱世です。 このページでは、後漢の滅亡から西晋による再統一までの流れを、官渡・赤壁・夷陵・五丈原など8つの主要な合戦と、 そこで活躍した武将たちにスポットを当てて詳しく紹介します。
実際の海岸線をもとにした位置関係図です。朱色の番号は下の各合戦、金色の丸は魏の都・洛陽の目安です。
群雄割拠から魏・蜀・呉の三国鼎立へ、そして西晋による天下統一へ——再生ボタンまたは年代タブで、勢力図が移り変わる様子を確認できます。
184年の黄巾の乱から280年の天下統一まで、勢力図の移り変わりを簡略化した州単位のアニメーションでたどります(州境は史実を厳密に示すものではありません)。
黄巾の乱の後、後漢の統制は崩れ、各地の群雄がそれぞれ自立した勢力圏を築いていた。
華北の覇権を賭け、寡兵の曹操が河北随一の大軍閥袁紹と対峙した決戦。兵力で圧倒的に劣る曹操軍は苦しい持久戦を強いられたが、袁紹陣営から寝返った許攸の情報をもとに、兵糧庫のあった烏巣を自ら奇襲して焼き払う奇策に打って出た。兵糧を失った袁紹軍は総崩れとなり、この勝利によって曹操は華北統一の主導権を決定的なものとした。
華北をほぼ統一した曹操の大軍が長江を渡って南下する中、孫権と劉備の連合軍がこれを迎え撃った、三国志随一の決戦。船上戦に不慣れな曹操軍は疫病にも苦しめられ、黄蓋の偽りの降伏と火船による奇襲によって水軍が壊滅した。この敗北で曹操の天下統一の野望は挫かれ、魏・呉・蜀による三国鼎立の構図が定まる転機となった。
赤壁の敗戦後も江南への圧力を強める呉に対し、魏の防衛拠点合肥を守っていた張遼は、寡兵ながら夜明け前に自ら突撃を敢行し、十万ともいわれる孫権の大軍を大混乱に陥れたと伝えられる。孫権自身も危うく討ち取られかけたとされ、以後「張遼が来る(遼来来)」と言うだけで泣く子も黙ったという逸話が残るほど、その武名は呉の兵に恐れられた。
義弟関羽を討たれた仇討ちとして、皇帝に即位したばかりの劉備が自ら大軍を率いて呉へ侵攻した。呉の若き将陸遜は緒戦であえて後退を重ねて劉備軍を長江沿いの山中深くまで誘い込み、酷暑の中で陣営を長々と連ねさせたところを見計らって火計を仕掛け、蜀軍の連なる陣営を一夜にして焼き払った。この大敗で蜀漢は建国直後に多くの将兵を失い、劉備もまもなく病没することになる。
劉備の死後、丞相諸葛亮が「漢室の再興」を掲げて敢行した第一次北伐。緒戦は順調に進んだが、要衝街亭の守備を託された馬謖は諸葛亮の指示に反し、水源から離れた山上に布陣する定石破りの采配をとった結果、魏の張郃に水路を断たれて大敗を喫する。この敗戦により北伐の前線基盤を失った諸葛亮はやむなく全軍を撤退させ、軍規を守るため愛弟子であった馬謖を涙ながらに処刑した「泣斬馬謖」の故事はあまりにも名高い。
国力で大きく劣る魏に対し、たびたび北伐を繰り返した諸葛亮の最後の戦い。渭水南岸の五丈原に布陣した蜀軍に対し、魏の司馬懿は野戦を避けて徹底した持久策をとり、両軍は長期にわたりにらみ合いを続けた。諸葛亮は屯田策で長期戦に備えていたが過労が重なり陣中で病に倒れ、そのまま没する。総司令官を失った蜀軍は撤退を余儀なくされ、以後蜀漢が魏へ大規模な攻勢に出ることは事実上なくなった。
諸葛亮の死後、その北伐路線を受け継いだ姜維であったが大きな戦果は挙げられず、蜀漢の国力は次第に消耗していった。魏の鄧艾は正面の姜維軍をやり過ごし、道なき険しい山道を踏破して成都に迫るという大胆な奇襲策を敢行する。予期せぬ方面からの敵軍出現に成都の守りは崩れ、皇帝劉禅はほとんど抵抗することなく降伏を選んだ。劉備の建国から43年、蜀漢はここに滅亡し、三国の一角が初めて消え去ることになった。
魏の禅譲を受けて建った西晋は、三国最後の一角として残る呉への攻勢を強めた。西晋の王濬は益州で建造した大規模な水軍を長江に浮かべ、呉が川に張り巡らせた鉄鎖の防柵を焼き切って突破しながら、都建業(現在の南京)へと進軍した。暴君として知られた呉の最後の皇帝孫皓はついに降伏し、後漢末の黄巾の乱以来約1世紀近く分裂を続けた中国は、ここに再び統一されることになった。
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