春
770 BC – 403 BC

春秋の出来事一覧(春秋時代)

都を東へ逃れた周王朝は、もはや天下に号令する力を失っていた。名目だけの天子のもと、諸侯たちが覇を競い合う——斉の桓公、晋の文公。孔子が生まれ、諸子百家の源流が芽吹いたのも、この分裂と混沌の時代であった。

770 BC平王へいおうの東遷
王朝

西周の滅亡を受け、諸侯の支持を得た平王は都を鎬京から東方の洛邑(現在の洛陽)へと移した。この遷都以後の周を「東周」と呼び、その前半期にあたる時代が「春秋時代」と称される。東遷を境に周王室の直轄領は大きく縮小し、諸侯に対する軍事的・経済的な優位を失ったことで、その権威は次第に形式的・儀礼的なものへと変質していった。これに代わって、独自の軍事力と経済力を背景に諸侯間の秩序を主導する有力諸侯、すなわち「覇者」が台頭する時代が始まることになる。

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679 BC斉桓公せいかんこう、覇者となる
王朝

東方の大国斉の桓公は、かつて自らの命を狙った政敵側の臣であった管仲を寛容にも宰相として登用し、その卓越した内政・経済改革によって国力を大きく高めた。「尊王攘夷」を掲げ、周王室の権威を立てつつ異民族の侵入から中原諸国を守るという名分のもと、諸侯を集めた会盟を主催し、春秋時代で最初の「覇者」として認められる存在となった。管仲の改革は塩や鉄の専売など後世の経済政策の先駆けともいえる内容を含み、その言行は後に『管子』としてまとめられ伝えられている。桓公の覇業は、以後の晋・楚・呉・越など有力諸侯が覇権を争う「春秋の五覇」の時代の先駆けとなった。

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632 BC晋文公しんぶんこうの覇権・城濮の戦いじょうぼくのたたかい
戦争・動乱

晋の文公(重耳)は若い頃に国内の政争を逃れて19年間にも及ぶ亡命生活を各国で送り、艱難辛苦の末に帰国して即位したという劇的な半生で知られる。即位後は南方の大国楚と中原の覇権を争い、城濮の戦いにおいて機略に富んだ戦術を用いてこれを打ち破った。この勝利により晋は斉に続く新たな覇者としての地位を確立し、以後長きにわたり中原諸侯に大きな影響力を持ち続けることになる。亡命中に世話になった人々への恩義を貫いた逸話や、退却の約束を律義に守った「退避三舎」の故事なども、文公の人物像を伝えるものとして後世に語り継がれている。

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551 BC孔子こうしの誕生
文化

魯国の陬邑(現在の山東省曲阜近郊)に生まれた孔子は、若くして礼制に通じ、後に多くの弟子を率いて諸国を遊説しながら仁と礼による理想の政治を説いた思想家・教育者である。身分の別なく門弟を受け入れたその教育姿勢は、当時としては画期的なものであった。孔子自身の言行やその弟子との問答は死後『論語』としてまとめられ、以後の中国のみならず朝鮮・日本・ベトナムなど東アジア全体の思想・倫理・統治観に長きにわたり絶大な影響を与え続けている。生前は必ずしも政治的に重用されなかったが、漢代以降儒教が国家の正統思想として位置づけられるにつれ、孔子は「聖人」として特別な地位を占めるようになった。

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494 BC呉ご越えつの抗争・臥薪嘗胆がしんしょうたん
戦争・動乱

長江下流域で覇を競った呉と越の両国は、数十年にわたり激しい抗争を繰り広げた。会稽で呉に大敗した越王勾践は屈辱的な講和を受け入れて臣従し、以後は苦い肝を嘗めて恨みを忘れぬよう自らを戒めながら国力の回復に努めたと伝えられる。一方の呉王夫差もまた、父の敗死の恨みを忘れぬよう薪の上に寝て復讐を誓ったとされ、両者の執念の物語はやがて「臥薪嘗胆」という故事成語として現代の日本語にも定着している。長年の雌伏の末に勾践は名臣范蠡らの補佐を得て呉を滅ぼし、最終的に中原にまでその名を知られる覇者となったと伝えられる。

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453 BC三家分晋さんかぶんしん
戦争・動乱

春秋時代を通じて中原の有力な覇者であった晋では、公室の権威が弱まる一方で、韓・魏・趙という有力な大夫(卿)の家系が実権を握るようになっていった。前453年、これら三氏は互いに争っていた智氏を滅ぼして所領を分割し、事実上晋の領土を三分割する状態となった。名門の大国であった晋がこうして解体されたことは、それまで血縁や伝統的権威に基づいていた秩序の崩壊を象徴する出来事であり、実力本位の下剋上的な政治情勢への移行を印象づけるものとなった。この三家分晋は、後の前403年に周王室から正式な諸侯として承認されることで名実ともに確定し、戦国時代の始まりを画する重要な画期とされる。

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