周
1046 BC – 771 BC

西周の出来事一覧

殷を討った武王は、新たな統治の理念を掲げる。「天命」——徳を失った王は天に見放される、という思想である。周公旦が礼と楽の制度を整え、後に孔子が理想とする秩序がここに築かれた。だが西方異民族の侵入により、都は陥落する。

1046 BC周の建国
王朝

牧野の戦いで殷を滅ぼした武王が、渭水盆地の鎬京(現在の西安付近)に都を置き、新たな王朝として周を開いた。周王室は「天命」という思想を掲げ、徳を失った殷に代わって天より統治を委ねられたとする形で自らの正統性を説明した。この天命思想は、以後の中国史において王朝交代を正当化する基本的な政治理念として長く受け継がれていくことになる。武王は即位後まもなく没したと伝えられ、その後は弟の周公旦が幼い成王を補佐して国家の基礎固めにあたった。

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1043 BC封建制(分封制)の確立
文化

周王室は一族や功臣、あるいは服属した旧勢力の首長らを各地の諸侯として封じ、彼らに封国の統治を委ねる封建制(分封制)を確立した。諸侯は周王に対して軍役や貢納の義務を負う一方、封国内では独自の統治権を持ち、血縁関係を軸にした宗法制度と結びつくことで秩序が保たれた。この制度により周の勢力圏は黄河流域から長江流域にまで大きく広がり、後の中国の広大な版図の原型が形成されていった。一方で、時代が下り血縁的なつながりが希薄化するにつれ、諸侯の自立傾向が強まり、春秋戦国の分裂を招く要因ともなった。

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c. 1042 BC周公旦しゅうこうたんの摂政と礼楽制度
文化

武王の弟であった周公旦は、幼くして即位した成王を補佐する摂政として国政を担い、殷の遺臣らによる反乱(三監の乱)を鎮圧して周王朝の基盤を安定させた。周公旦はまた、身分や場に応じた行動規範である「礼」と、それを支える音楽としての「楽」を体系化し、統治と社会秩序の両面を支える礼楽制度を整備したと伝えられる。この礼楽による統治のあり方は、後に孔子が理想とする政治のモデルとして繰り返し言及し、儒教思想の重要な源流の一つとなった。摂政としての任期を終えると自ら政権を成王に返上したとされ、その公明な人柄は後世「周公」として長く尊敬を集めることになる。

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c. 1000 BC成康の治せいこうのち
王朝

成王とそれに続く康王の治世は、刑罰を四十年余り用いる必要がないほど天下が治まっていたと伝えられ、周王朝における理想的な太平の時代として後世長く語り継がれている。この時期に鋳造された青銅器「何尊」の銘文には、成王が周公の遺志を継いで東都成周(洛邑)の造営を進めたことや、「宅茲中國(この中国に居す)」という一節が刻まれており、これが現在確認できる「中国」という語の最古の使用例として知られる。安定した政治基盤のもとで周の勢力圏はさらに拡大し、諸侯を束ねる周王室の権威も最盛期を迎えたとされる。もっとも、こうした太平の記述は後代の理想化を含んでいる可能性もあり、史料の性格には注意が必要である。

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841 BC国人暴動こくじんぼうどう(共和行政きょうわぎょうせい)
戦争・動乱

厲王の圧政と言論統制に対し、都に住む「国人」と呼ばれる人々が蜂起し、厲王は都を追われて彘(山西省)の地へ逃れたと伝えられる。王が不在となった周では、有力な大臣であった周公・召公らが合議によって政治を執り行う「共和行政」と呼ばれる異例の統治体制が敷かれた。この共和元年(前841年)は中国史上、年代が確実に一年単位で判明する最初の年とされ、以後の中国の紀年法における重要な基準点となっている。共和行政は厲王の死後、その子である宣王の即位まで十四年間続いたと伝えられる。

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771 BC犬戎けんじゅうの侵入・幽王ゆうおうの死
戦争・動乱

寵姫褒姒を溺愛した幽王が、彼女を笑わせるためにいたずらに烽火(のろし)を上げて諸侯を集めては失望させることを繰り返した結果、いざ西方の異民族犬戎が本当に侵攻してきた際には誰も救援に駆けつけなかったと伝えられる。この「烽火戯諸侯」の逸話は、信義を失った為政者の末路を戒める故事として後世に広く知られている。犬戎の攻撃により都鎬京は陥落して幽王は殺害され、ここに西周は滅亡した。翌年、諸侯に擁立された平王は混乱を逃れて都を東方の洛邑(現在の洛陽)へ移し、以後の時代は「東周」、なかでも前半期は「春秋時代」と呼ばれることになる。

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