殷
1600 BC – 1046 BC

殷(商)の出来事一覧

亀の甲羅や獣の骨に刻まれた文字が、三千年の沈黙を破って語り出す。それは中国最古の確かな文字記録、甲骨文——占いと祭祀に明け暮れた青銅器文明の記憶である。だが栄華を誇った王朝も、暴君・紂王のもとで炎に包まれ、崩れ去る。

c. 1600 BC湯王とうおうによる殷の建国
王朝

夏の桀を鳴条の戦いで破った湯王が、新たな王朝として殷(商)を開いたと伝えられる。湯王は名宰相伊尹の補佐を受けて内政を整え、周辺諸侯の信望を集めたうえで夏打倒に踏み切ったとされる。殷代には青銅器の鋳造技術が飛躍的に発展し、祭祀や占卜を通じて王権の正統性を示す統治体制が本格化していった。なお殷の建国当初の都の所在地については諸説あり、後の盤庚の遷都によって都が現在の河南省安陽の地に定まるまで、幾度か遷都が繰り返されたと考えられている。

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c. 1300 BC盤庚ばんこうの遷都
王朝

殷は建国以来、洪水などの理由で幾度も都を移していたが、第19代の王とされる盤庚の代に都を殷(現在の河南省安陽)に定め、以後長期にわたり安定した王朝運営が続いたとされる。遷都に際しては貴族層の抵抗も強かったと伝えられ、盤庚は民や臣下を説得する訓辞を残したとされる。この安陽の地は後に「殷墟」と呼ばれる大規模な都城遺跡として現代に伝わり、20世紀の発掘調査によって甲骨文字をはじめとする殷代文明の実態が明らかになった。以後の殷はこの地を都として約250年にわたり存続することになる。

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c. 1250 BC甲骨文字こうこつもじの使用
文化

王が国家の重要事項を占う際、亀の甲羅や獣の肩甲骨を火であぶってできたひび割れの形から吉凶を判断し、占いの内容と結果を刻みつけたのが甲骨文字である。現存する最古の体系的な漢字群であり、既に象形・指事・会意・形声といった漢字の基本的な構成法がほぼ出そろっていたことが確認できる。王の狩猟・祭祀・軍事・農事・天候など、当時の政治と生活のあらゆる場面が記録されており、王の意思決定に深く関わる重要な史料となっている。19世紀末に薬材「竜骨」として売買されていたものが甲骨文字と気づかれたことをきっかけに存在が知られるようになり、以後の殷墟発掘調査によって10万点を超える出土が確認されている。

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c. 1200 BC武丁ぶていの治世と婦好ふこうの活躍
対外関係

殷でもっとも国力が充実したとされる武丁の治世には、王妃の一人である婦好が自ら軍を率いて周辺諸族を征討したことが甲骨文に記されており、殷の勢力圏が大きく拡大した時期とされる。婦好は祭祀を主宰する神官としての役割も担っていたことが甲骨文からうかがえ、当時の王室女性が軍事・宗教の両面で重要な地位を占めていたことを示す貴重な事例である。1976年に殷墟で発見された婦好墓は盗掘を免れた状態で発見され、大量の青銅器・玉器・骨器などがほぼ完全な形で出土した。この発見により、文献の乏しい殷代の王室生活や祭祀のあり方が具体的に明らかになった。

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c. 1075 BC紂王ちゅうおうの暴政
王朝

殷最後の王とされる紂は、寵姫妲己を溺愛して酒池肉林の享楽にふけり、諫言する重臣を残酷な刑罰で処したと伝えられ、後世「暴君」の典型として語られてきた。ただし紂王の暴虐を伝える逸話の多くは後代の文献、とりわけ殷を滅ぼした周の側の史料に由来しており、勝者による敗者への史観が誇張された形で反映されている可能性が指摘されている。近年の研究では、紂王は東方の異民族討伐を積極的に進めた有能な君主であった一面も指摘されており、単純な暴君像の見直しも進められている。この紂王をめぐる物語は、後世『封神演義』をはじめとする伝奇小説の題材として繰り返し脚色され、現代でも映像作品に描かれ続けている。

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1046 BC牧野ぼくやの戦い
戦争・動乱

殷の紂王による失政と重税に対する諸侯の不満を背景に、西方で勢力を蓄えていた周の武王が諸侯連合軍を率いて挙兵し、殷の都近郊の牧野で決戦に及んだ。この戦いで殷軍の主力は総崩れとなり、紂王は宮殿に火を放って自ら命を絶ったと伝えられる。約550年続いたとされる殷王朝はここに滅亡し、以後は周王室を頂点とし、一族や功臣を諸侯として各地に封じる封建的な統治体制の時代が始まることになる。この王朝交代は、武力による天命の移行という形で、後の中国史における易姓革命思想の原型のひとつとなった。

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