戦
403 BC – 221 BC

戦国の出来事一覧(戦国時代)

晋という大国が三つに割れたとき、もはや秩序も礼儀も存在しなかった。残ったのは、七つの強国が生き残りをかけて殺し合う剥き出しの弱肉強食——「戦国」の名にふさわしい二百年である。この果てに、天下は一人の男のもとへ収斂していく。

403 BC三家分晋の公認
王朝

すでに実質的に晋の領土を分割支配していた韓・魏・趙の三氏に対し、周の威烈王が正式に諸侯としての地位を認め、それぞれ独立した国として承認した。これにより名門大国であった晋は名実ともに消滅し、韓・魏・趙という三つの新興国が戦国時代の主要な列強に名を連ねることになった。この出来事は、実力を持つ者が名分をも手にするという下剋上的な時代の空気を象徴しており、司馬光の『資治通鑑』はこの前403年をもって戦国時代の始まりとしている。以後、秦・楚・斉・燕を含めた「戦国七雄」が互いに覇権を争う動乱の時代が本格化していく。

→
356 BC商鞅しょうおうの変法(秦)
文化

西方の後進国であった秦で登用された法家の政治家商鞅は、孝公の全面的な支持のもと、身分の別なく軍功に応じて爵位や土地を与える制度、連座制による治安維持、度量衡の統一など、徹底した法治主義に基づく大改革を断行した。旧来の貴族層の特権を否定するこの改革には強い抵抗もあったが、商鞅は太子の傅役を処罰するなど法の適用に一切の例外を認めない厳格な姿勢を貫いたと伝えられる。この変法により秦の国力は農業生産と軍事力の両面で飛躍的に高まり、後の中国統一に向けた決定的な転機となった。もっとも商鞅自身は孝公の死後、旧貴族層の反発を受けて非業の死を遂げたと伝えられ、改革者の栄光と悲劇を象徴する人物ともなっている。

→
4世紀 BC諸子百家しょしひゃっかの最盛期
文化

周王室の権威が失われ諸国が生き残りをかけて争うなか、富国強兵や理想の統治のあり方をめぐって多様な思想家たちが各国の君主に自説を説いて回った。儒家の孟子は性善説に基づく王道政治を、道家の荘子は無為自然の境地を、墨家の墨子は身分を超えた博愛(兼愛)と非攻を、法家は信賞必罰の法治を、それぞれ主張し、互いに論争を繰り広げた。斉の都臨淄に設けられた稷下では、諸国から集まった学者たちが官職に就くことなく自由に議論を交わす「稷下の学」と呼ばれる知的サロンが栄えたと伝えられる。この時代に形成された諸思想は、以後二千年以上にわたる中国の政治・倫理・哲学思想の基盤を形づくることになった。

→
333 BC合従連衡がっしょうれんこうの外交戦
対外関係

強大化する秦への対応をめぐり、東方六国が秦以外の国相互に同盟を組んで対抗しようとする「合従」策と、逆に秦が個々の国と結んで他国を分断しようとする「連衡」策との間で、めまぐるしい外交戦が繰り広げられた。合従策を説いた蘇秦は一時六国の宰相を兼任したと伝えられ、対する連衡策を説いた張儀は秦の宰相として各国を巧みに切り崩していったとされる。両者はともに弁論術に長けた縦横家と呼ばれる遊説家であり、その駆け引きは単なる武力に依らない情報戦・外交戦の重要性を後世に強く印象づけた。結果として東方諸国の足並みはたびたび乱され、この間に秦は着実に国力を蓄えて他国を圧倒する存在へと成長していった。

→
260 BC長平の戦いちょうへいのたたかい
戦争・動乱

秦と趙という二大強国が国運を賭けて激突した戦いで、当初持久戦に持ち込んでいた趙の将軍廉頗が更迭され、実戦経験の乏しい趙括に指揮が交代したところを秦の名将白起につけこまれ、趙軍は包囲されて壊滅的な敗北を喫した。捕虜となった趙兵は数十万に上ったが、白起はその大半を生き埋めにしたと伝えられ、戦国時代を通じて最大規模の犠牲を出した戦いとして知られる。この敗北により趙は事実上再起不能なほどの国力を喪失し、東方六国の中で秦に対抗しうる最大の障壁が取り除かれたことで、以後秦による中国統一への流れが決定的なものとなった。1990年代以降、山西省高平市の古戦場周辺では多数の白骨が埋まった坑跡が発掘され、この戦いの凄惨さを裏付ける物証となっている。

→
221 BC戦国の終結
王朝

秦王政(後の始皇帝)は、韓・趙・魏・楚・燕を相次いで滅ぼした後、最後まで独立を保っていた東方の斉を降して全土を統一した。これにより前403年の三家分晋の公認から数えて約180年、あるいは前770年の平王東遷から数えるとおよそ550年に及んだ分裂と抗争の時代についに終止符が打たれた。長期にわたる戦乱を勝ち抜いた秦は、それまでの封建的な諸侯体制に代えて中央集権的な郡県制を全土に敷き、度量衡・文字・貨幣の統一など、以後の中国の国家運営の基本形を作り上げていくことになる。この統一は中国史上初めて単一の皇帝権力のもとに広大な領域がまとめられた画期的な出来事であり、「皇帝」という称号もこの時新たに創始された。

→