孫策・孫権の二代に仕えた呉の名将。赤壁の戦いで呉軍の総指揮を執り、曹操の大軍を退けた。
廬江の名家に生まれた周瑜は、同い年の孫策と少年時代から親交を結び、孫策が江東平定に乗り出すとその片腕として各地を転戦した。容姿端麗で音楽にも通じ、「周郎」と呼ばれて人々に慕われたと伝えられる。孫策が急死すると、若くして後を継いだ孫権を重臣として支え、動揺する江東の人心をまとめ上げた。
208年、曹操が荊州を制して降伏を迫ると、呉の群臣の多くが降伏論に傾く中で周瑜は徹底抗戦を主張し、孫権の決断を後押しした。赤壁の戦いでは呉軍の総司令として黄蓋の火攻めを採用し、曹操の大軍を撃退して天下三分の形勢を決定づけた。その後、益州攻略を構想したが、その準備のさなかに36歳の若さで病没した。『三国志演義』では諸葛亮の引き立て役として度量の狭い人物に描かれがちだが、正史では度量が広く人望厚い名将として記されている。