西涼の群雄馬騰の子で、のちに劉備に仕えた蜀の猛将。潼関の戦いで曹操を窮地に追い込んだ。
扶風郡の出身で、涼州で勢力を張った馬騰の長男として生まれた。羌族など西方の異民族からも畏敬を集める勇将で、211年には韓遂ら関中の諸将と結んで曹操に反旗を翻した(潼関の戦い)。一時は曹操を危うい目に遭わせるほど善戦したが、曹操の離間策によって韓遂との連携を崩され敗北した。この挙兵の結果、都にいた父馬騰ら一族は処刑されている。
その後も涼州で抵抗を続けたが敗れ、漢中の張魯のもとに身を寄せた後、214年に益州を攻めていた劉備に帰順した。馬超の来援を聞いた益州の劉璋は戦意を失って降伏したとされ、その威名がいかに大きかったかを物語る。蜀漢では驃騎将軍などの高位に就いたが、222年に47歳で病没した。