劉備に仕えた軍師・政治家。卓越した知略で知られ、後世「知恵者」の代名詞として語り継がれる。
荊州で晴耕雨読の隠棲生活を送っていた諸葛亮は、その才を「臥龍」と評されながらも仕官を求めず、劉備が三度にわたり草庵を訪ねてようやく迎え入れられたという「三顧の礼」の故事で知られる。このとき示したとされる天下三分の構想「隆中対」は、その後の劉備陣営の基本戦略となり、赤壁の戦いでの孫権との同盟実現にも大きく貢献した。
劉備の死後は幼帝劉禅を補佐する丞相として蜀漢の内政と軍事の両面を一手に担い、法制度の整備や農業振興によって国力の底上げを図る一方、国力に劣る蜀漢が生き残る道として自ら北伐の軍を率いて魏と戦い続けた。出陣に際して劉禅に奉った上奏文『出師表』は、主君への忠誠を綴った名文として後世に広く読み継がれている。志半ばで五丈原の陣中に病没するまで私財を蓄えず国事に尽くしたその生涯は、「鞠躬尽瘁」(身を粉にして力を尽くす)の体現として、忠臣・知将の理想像を語る際に必ず引き合いに出される。