呉の武将。学問に励んで大きく成長したことから「呉下の阿蒙にあらず」の故事を生み、関羽から荊州を奪取した。
汝南郡の出身で、貧しい家に育ち、少年時代から姉の夫に従って戦場に出た叩き上げの武将である。武勇には優れていたが学問とは無縁であったため、孫権から書物を読むよう勧められると、以後熱心に学問に励んだ。後に魯粛が呂蒙と語り合った際、その見識の深さに驚いて「もはや呉にいた頃の阿蒙(蒙ちゃん)ではない」と感嘆し、呂蒙が「士別れて三日なれば刮目して相待すべし」と応じたという故事は、日本でもよく知られている。
魯粛の死後は荊州方面の軍事を任され、219年、関羽が魏の樊城攻めに主力を傾けた隙を突いて、兵を商人に変装させて長江を渡らせる奇策で荊州を奪取した。孤立した関羽は捕らえられて処刑され、呉は荊州の大半を手に入れた。しかしこの大功の直後、呂蒙は病に倒れ、まもなく42歳で没した。