財政悪化と冗官・冗兵・冗費という「三冗」問題、さらに遼・西夏への歳幣や防衛費の重い負担に苦しんでいた北宋中期、神宗に登用された王安石は「富国強兵」を掲げて青苗法・募役法・市易法・保甲法・将兵法など多岐にわたる急進的な改革(新法)を次々と実施した。これらの改革は国家財政の立て直しと軍事力強化を狙ったものであったが、地方での運用段階では農民や商人にかえって負担を強いる面もあり、司馬光(後に『資治通鑑』を編纂)ら旧来の制度を重んじる保守派官僚から激しい批判を浴びることになった。神宗の死後、幼帝を後見した太皇太后のもとで旧法党が政権を握ると新法はいったんほぼ全廃されるが、哲宗の親政開始後には再び新法派が実権を取り戻すなど、新法・旧法の党争は数十年にわたって一進一退を繰り返した。この長期化した党争は朝廷内の対立と内部消耗を深刻化させ、後世の一部の歴史家からは北宋が衰退へと向かう遠因の一つとみなされている。