即位翌年の961年、太祖は石守信ら建国の立役者となった禁軍の有力将軍たちを酒宴に招き、自らも即位の経緯(黄袍加身)に触れながら、功績のありすぎる部下を持つ君主の不安を巧みに説いて聞かせたと伝えられる。翌日、意を汲んだ将軍たちは相次いで病を理由に辞職を願い出て兵権を返上し、太祖はその見返りに広大な田宅や皇族との縁組みといった手厚い待遇を与えたとされる。この巧みな話術と懐柔によって、唐末以来長らく中国を苦しめてきた軍閥割拠の温床となる兵権の私物化を、流血を伴わずに解消することに成功した。この一件を皮切りに、宋代には軍の指揮権と兵力動員権を分離する仕組みや文官による軍事監督の強化など、武断勢力の台頭を防ぐための諸制度が体系的に整えられていくが、これは同時に宋の軍事力を慢性的に弱体化させ、後の遼・西夏・金との抗争で苦戦を強いられる遠因になったとも評価される。