遼の聖宗とその母蕭太后が親征して大軍を南下させ、宋の都開封に近い澶州(現・河南省濮陽)の対岸にまで迫ると、宋の朝廷内では一時遷都して難を逃れるべきだとの意見も出るほどの動揺が広がった。しかし宰相寇準は皇帝真宗に親征を強く進言し、真宗自らが澶州城頭に姿を現したことで宋軍の士気は大いに高まり、遼の将軍蕭撻凜を城下で射殺するなど戦況は宋側にやや有利に傾いた。この情勢を受けて両国は和議を結び、宋と遼は兄弟の国として対等な関係を結ぶ一方、宋が毎年銀10万両・絹20万匹を「歳幣」として遼に贈るという条件で国境の現状維持が合意された(澶淵の盟)。この盟約は屈辱的な内容と評されることもあるが、実際には比較的小さな経済的負担と引き換えに、以後約120年間にわたる宋遼間の平和と活発な交易関係をもたらす結果となり、実利を重んじた外交解決の先例として評価されることもある。