山東省を発端に広がった義和団は「扶清滅洋(清を助け西洋を滅ぼす)」を掲げ、キリスト教会や外国人宣教師、鉄道・電信施設などを次々と襲撃する排外運動を展開した。当初これを取り締まろうとしていた清朝の保守派、とりわけ実権を握る西太后は、次第に義和団の勢いを利用する方向へと転じ、1900年には列強諸国に対し正式に宣戦布告を行うという異例の決断に踏み切る。これに対し日本・英国・米国・フランス・ドイツ・ロシア・イタリア・オーストリアの8か国は連合軍を組織して天津・北京を占領し、この過程で北京の各国公使館が2か月近く包囲される「北京の55日」として知られる籠城戦も発生、西太后と光緒帝は北京を脱出して西安へ避難する事態となった。1901年に結ばれた北京議定書では、天文学的な額に上る賠償金の支払いや北京への外国軍常駐権などが認められ、清朝の国際的権威と統治能力は決定的に失墜することとなった。