中国史年表
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隋
隋ずい / 581 – 618

隋煬帝ずいようだい(楊広ようこう)

隋ずいの第2代皇帝。大運河の建設や科挙制度の整備など後世に残る事業を進めた一方、度重なる外征と暴政により隋ずいを短命に終わらせた皇帝として知られる。

隋煬帝(楊広)
伝: 閻立本えんりっぽん(唐代とうだい)「歴代帝王図巻れきだいていおうずかん」 / Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

生涯・業績

隋ずいを建てた文帝ぶんてい(楊堅ようけん)の次男として569年に生まれた。589年の陳ちんを滅ぼす遠征では総大将を務め、600年には兄楊勇ようゆうに代わって皇太子となった。604年に父が没して即位したが、父の死には楊広ようこうの関与を疑う説も古くから伝えられている。

即位後は東都洛陽らくようの造営や、黄河と長江ちょうこうを結ぶ大運河の開通といった大事業を短期間で進め、大運河はその後の中国の南北をつなぐ大動脈となった。官吏登用試験の科挙も、煬帝ようだいの時代に進士科しんしかが置かれて形を整えたとされる。日本との関わりも深く、607年に遣隋使けんずいし小野妹子おののいもこが持参した「日出づる処ところの天子」で始まる国書を見て不快を示したという話は『隋書ずいしょ』に記されている。しかし612年から3度にわたる高句麗こうくり遠征はいずれも失敗し、相次ぐ動員どういんと重い負担に耐えかねた民衆や豪族の反乱が全国に広がった。煬帝ようだいは江都こうと(現在の揚州ようしゅう)に逃れて政治を顧みなくなり、618年に近臣きんしんの宇文化及うぶんかきゅうらに殺害された。「煬よう」は天に逆さからい民を虐しいたげた君主に贈られる諡おくりなで、次の唐とうによって付けられたものである。

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