太宗の後宮に入り、後に高宗の皇后となった武則天は、高宗の死後に自ら政務を執る「臨朝称制」を経て、実子である中宗・睿宗を相次いで廃立し、690年にはついに国号を周と改めて自ら皇帝に即位した。中国史上唯一の女帝として君臨した治世では、密告や酷吏を用いた恐怖政治で反対派を厳しく弾圧する一方、科挙による人材登用を大きく拡大して身分によらない官僚の登用を進めるなど、後の開元の治につながる人材基盤を整えたとも評価される。晩年の705年には宰相張柬之らによる政変(神龍革命)で退位に追い込まれ、国号は唐に復されて息子の中宗が復位した。その治世に対する評価は現在も賛否が分かれるが、女性が皇帝の座に就いたという事実自体が中国史上極めて異例な出来事として記憶されている。