北魏の孝文帝は平城から中原の中心地洛陽への遷都を断行し、あわせて鮮卑族の服装・言語を中国風に改めさせ、皇族の姓を拓跋から元に改姓するなど急速な漢化政策を推し進めた。漢人官僚の登用や鮮卑・漢人間の通婚も奨励され、支配層の統治理念は次第に中国的な色彩を強めていくことになる。一方でこうした急激な変化は北方の辺境を守る保守的な鮮卑軍人層の反発を招き、後の六鎮の乱という大規模反乱の遠因になったとも指摘される。洛陽遷都に伴い、都近郊では新たな仏教石窟の造営も始まり、北魏仏教美術の新たな中心地が築かれていった。