晩年の玄宗は寵妃楊貴妃への寵愛にかまけて政務を顧みなくなり、その一族楊国忠と、平盧・范陽・河東の三節度使を兼ねる強大な軍事力を握った安禄山との対立が深まっていった。755年、安禄山は范陽で挙兵し、翌756年には洛陽・長安を相次いで陥落させ、玄宗は蜀(四川)へ逃れる途上、馬嵬駅で兵士たちの要求により楊貴妃を自害させざるを得なかったと伝えられる。皇太子李亨は霊武で即位して粛宗となり、ウイグル(回紇)の援軍を得て長安・洛陽を奪還したが、反乱そのものは安禄山の死後も部将史思明らに引き継がれ、763年まで8年近くにわたって続いた。この大乱により華北の人口は激減し、律令制の根幹であった均田制・租庸調制は崩壊、乱後は各地に自立性の強い藩鎮(節度使)が割拠する体制が定着し、唐は「安史の乱」を境に繁栄の絶頂から緩やかな衰退へと向かうことになる。