皇太子李建成とその弟李元吉は、数々の軍功を挙げて声望を高める次男李世民を危険視し、暗殺を謀ったとされる。これを察知した李世民は626年、長安城の北門玄武門に伏兵を配して兄李建成と弟李元吉を殺害し、父高祖に迫って自らを皇太子とさせ、まもなく譲位を受けて太宗として即位した。骨肉の争いを経て即位した太宗であったが、諫言をいとわない名臣魏徴らを重用し、質素倹約と民力の休養に努めた結果、後世「貞観の治」と呼ばれる安定した善政の時代を築き上げることになる。この治世の様子は後に『貞観政要』としてまとめられ、以後の東アジア各地の為政者にとって理想的な統治の手本として長く読み継がれた。