中国史年表
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隋
隋ずい / 581 – 618

隋文帝ずいぶんてい(楊堅ようけん)

隋ずいの建国者。南北朝の分裂を終わらせて中国を再統一し、律令制や科挙の前身となる官僚登用制度など後の唐とうにも受け継がれる諸制度の基礎を築いた。

隋文帝(楊堅)
伝: 閻立本えんりっぽん(唐代とうだい)「歴代帝王図巻れきだいていおうずかん」 / Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

生涯・業績

北周ほくしゅうの有力な将軍の家に541年に生まれた楊堅ようけんは、娘が北周ほくしゅうの宣帝せんていの皇后となったことで外戚がいせきとして権力を握った。宣帝せんていが若くして没し幼い静帝せいていが即位すると、581年に禅譲ぜんじょうを受けて即位し、隋ずいを建てた。都として長安ちょうあんの近くに新たに大興城だいこうじょうを築き、これが後の唐とうの都長安ちょうあんとなる。589年には南朝の陳ちんを滅ぼし、西晋せいしんの滅亡から約270年続いた南北の分裂を終わらせて中国を再統一した。

内政では開皇律令かいこうりつりょうを定め、中央官制を三省六部さんしょうりくぶに整理し、均田制きんでんせいと租庸調制そようちょうせいによって農民と税の仕組しくみを整えた。また貴族の家柄を重んじる九品官人法きゅうひんかんじんほうを廃して試験による官吏登用を始め、これが科挙の起源とされる。こうした制度の多くは唐とうにそのまま受け継がれ、日本の律令国家づくりにも影響を与えた。倹約家として知られる一方、皇后独孤伽羅どっこからの発言力が強く、ほかに妃きさきを置くことを許されなかったという逸話も残る。皇后の意向もあって皇太子を楊勇ようゆうから次男楊広ようこう(後の煬帝ようだい)に替えたことが、結果として隋ずいの短命につながった。604年に没した。

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