煬帝は南北を結ぶ水運網の整備を目的に、既存の河川や運河を接続・拡張する大運河建設事業を推し進めた。永済渠・通済渠・邗溝・江南河などの区間が次々に開削され、洛陽を中心に北は涿郡(現・北京付近)、南は余杭(現・杭州)にまで至る一大水運網が完成した。この事業には数百万人ともいわれる民夫が徴発されたと伝わり、過酷な労役は民衆の疲弊と怨嗟を招き、隋末の反乱の一因になったとも指摘される。一方でこの運河は完成後、南方の豊かな穀物や物資を北の政治中心地へ運ぶ大動脈として機能し続け、後世の元代には大都(北京)へ直結する形に改修されるなど、現代に至るまで中国の経済を支える重要な水路であり続けている。