皇帝という存在が消え去った中国に訪れたのは、平穏ではなく軍閥割拠の混乱だった。孫文が掲げた共和の理想は、日中戦争、そして国共内戦という二重の嵐にもまれ続ける。そして1949年、この争いの結末が、新たな中国の姿を決定づけることになる。
辛亥革命の広がりを受け、1912年1月、海外から帰国した孫文を臨時大総統として南京に中華民国臨時政府が樹立され、秦の始皇帝以来2000年以上にわたり続いた皇帝支配の歴史がここに終わりを告げた。しかし革命勢力は当時なお圧倒的な軍事力を握っていた北洋軍閥の実力者袁世凱と妥協し、清朝皇帝の退位実現と引き換えに大総統の地位を袁世凱に譲る「南北議和」を成立させる。この結果、孫文はわずか数か月で大総統を退き、首都も袁世凱の基盤である北京に置かれることとなり、南京臨時政府は短命に終わった。新国家は漢・満・蒙・回・蔵の五民族の融和協調を意味する「五族共和」の理念を掲げ、五色旗を新たな国旗に定めたが、その後まもなく袁世凱自身が独裁化を強め、一時的に帝政復活を企てる(洪憲帝制)など、成立当初から中華民国の共和体制は極めて不安定な出発を強いられることになった。
→第一次世界大戦の戦後処理を話し合うパリ講和会議において、敗戦国ドイツが山東省に有していた権益が中国に返還されず、そのまま日本へ譲渡されることが決定すると、これに強い衝撃と怒りを覚えた北京の学生たちが1919年5月4日、天安門広場に集結して抗議デモを行い、親日派とみなされた要人の邸宅を焼き討ちするなど激しい抗議行動を展開した。運動はまたたく間に上海をはじめとする全国の都市に波及し、学生のみならず労働者・商人によるストライキも誘発する大規模な社会運動へと発展していった。この動きは単なる外交への抗議にとどまらず、陳独秀・胡適らが牽引していた「新文化運動」――口語による白話文学の提唱、「科学」と「民主」の称揚、伝統的な儒教道徳への批判――と結びつき、中国近代における思想革命としての性格を強く帯びることになる。五四運動を通じて政治的に覚醒した知識人・労働者層は、その後1921年の中国共産党結成をはじめとする以後の政治運動の重要な母体となっていった。
→孫文の死後、国民党の実権を掌握した蒋介石は、軍閥を打倒し中国統一を目指す北伐を進めていたが、その過程で急進化する共産党や労働運動の存在を自らの権力基盤への脅威とみなすようになる。1927年4月、蒋介石は上海において共産党員や労働組合活動家を武力で弾圧する「上海クーデター(四・一二政変)」を断行し、これにより国民党と共産党が協力してきた第一次国共合作は事実上崩壊した。弾圧を受けた共産党は都市部での公然活動を放棄して地下活動・武装闘争路線へと転換し、毛沢東らは江西省の井崗山に革命根拠地を築いて土地改革と遊撃戦(ゲリラ戦)を組み合わせた独自の戦略を展開し始める。この1927年の分裂は、以後20年以上にわたって断続的に続くことになる国共内戦の直接の起点となった。
→1931年9月、関東軍は奉天(現・瀋陽)郊外の柳条湖で南満洲鉄道の線路を自ら爆破しながら、これを中国側の破壊工作と偽って軍事行動を開始した(柳条湖事件)。日本政府が示した不拡大方針を関東軍は無視し、独断で軍事行動を拡大させて短期間のうちに満洲全域を占領するに至る。国際連盟はこの事態を重く見てリットン調査団を現地に派遣し、日本の行動を自衛権の行使とは認められない侵略行為であるとする報告書を採択したため、日本は1933年に国際連盟からの脱退を通告し国際的孤立を深めていくことになった。翌1932年には清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を執政(後に皇帝)に担ぎ上げて満洲国の建国が宣言されたが、その実権は一貫して関東軍が掌握しており、国際的には日本の傀儡国家とみなされることとなった。
→1937年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋付近で夜間演習中の日本軍と中国軍との間に偶発的な発砲事件が発生すると(盧溝橋事件)、現地レベルでの収拾がつかないまま戦火は拡大し、日中間の全面戦争へと突入していった。同年8月には上海でも大規模な戦闘(第二次上海事変)が発生し、日本軍はさらに首都南京へと進撃、同年12月に南京を占領した際には多数の民間人・投降兵の殺害が生じたとされる、いわゆる「南京事件」が発生した。この事件をめぐっては犠牲者数などの実態について中国・日本双方の研究者の間でなお見解の隔たりが大きく、国際的にも議論が続いている。首都陥落後も国民政府は重慶へと拠点を移して徹底抗戦の姿勢を崩さず、また共産党との間で再び協力関係(第二次国共合作)を結んで抗日民族統一戦線を形成し、以後8年に及ぶ長期戦を戦い抜くことになった。
→1945年8月、日本の無条件降伏により8年に及んだ日中戦争は終結し、同年9月には南京において日本軍代表による正式な降伏調印式が行われた。戦後の国家建設をめぐっては、対立していた国民党の蒋介石と共産党の毛沢東が重慶で直接会談し、内戦回避と平和的な政治協議を目指す「双十協定」に合意するなど、一時は融和の機運も見られた。しかしその後も両者の間の根深い相互不信は解消されず、米国のマーシャル特使による仲介も実質的な成果を上げられないまま終わり、1946年に入ると各地で両軍の軍事衝突が相次いで再燃していった。かくして協定はほどなく形骸化し、国民党と共産党は中国の主導権をめぐる全面的な内戦(国共内戦)へと本格的に突入していくことになる。
→当初は装備・兵力で優位に立つと見られていた国民党軍であったが、1948年から49年にかけて満洲・華北・華中で相次いで行われた遼瀋・淮海・平津の三大戦役に連敗し、共産党の人民解放軍が急速に大陸の主導権を握っていった。1949年10月1日、毛沢東は北京の天安門で中華人民共和国の建国を宣言し、これに対し劣勢に立たされた国民政府は同年12月、台北を臨時首都と定めて中国大陸からの撤退を余儀なくされた。この撤退に際しては、故宮に伝わる膨大な文物コレクションや金塊、さらに数十万人規模の軍人・民間人が台湾へと移送され、後に台北の国立故宮博物院として結実する文化的遺産の移転もこの時に行われている。台湾に拠った蒋介石はその後も戒厳令下での一党支配体制を敷きながら「大陸反攻」を掲げ続けたが、その実現に至ることはなく、この1949年の分断こそが今日にまで続く両岸関係の構図の直接の起点となった。
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