主人公の魏瓔珞のモデルは、乾隆帝の妃で嘉慶帝の生母となった孝儀純皇后(魏佳氏)。富察皇后や継皇后など主要な后妃は実在するが、復讐劇を軸にした物語の大半は創作。史実の魏佳氏は生前は皇貴妃までで、皇后の位は息子が皇太子に立てられた後に追贈されたものだった。
康熙帝・雍正帝・乾隆帝の三代は「康雍乾盛世」と呼ばれる清の最盛期。1735年に即位した乾隆帝は約60年在位し、新疆の平定などで清の版図を最大にした。ドラマの舞台はその前半、北京の紫禁城の後宮。皇后を頂点に皇貴妃・貴妃・妃・嬪・貴人と続く位階の中で、妃たちが皇帝の寵愛と子の地位を競った。
| ドラマでの役 | 実在モデル | 区分 | 史実での人物像 | ドラマとの違い |
|---|---|---|---|---|
| 魏瓔珞 | 孝儀純皇后(魏佳氏) | 実在 | 1727〜1775年。内務府に属する包衣(皇室に仕える家)の出身とされる。貴人から令嬪・令妃・令貴妃と昇り、継皇后の失脚後に皇貴妃となって後宮を取りまとめた。後の嘉慶帝を含む多くの子を産んだ。 | 姉の死の真相を追って後宮に入り、知略で敵を打ち破っていく復讐の物語は創作。史料には性格をうかがわせる記録がほとんど残っていない。 |
| 富察皇后(富察容音) | 孝賢純皇后(富察氏) | 実在 | 乾隆帝の最初の皇后で、1748年に死去。質素を好んだと伝わり、乾隆帝との仲は睦まじかったとされる。産んだ二人の皇子をいずれも幼くして失い、その後の東巡(山東への行幸)の帰途に病で亡くなった。 | ドラマでは主人公の庇護者として描かれ、最期も劇的に演出される。史実では行幸先からの帰り道での病死とされる。 |
| 嫻妃(輝発那拉・淑慎、後の継皇后) | 継皇后(輝発那拉氏/ウラナラ氏) | 実在 | 嫻妃・嫻貴妃を経て、富察皇后の死後に皇貴妃、1750年に皇后となった。1765年の南巡の途中で自ら髪を切り(満洲の習俗では喪を意味し、大きなタブーとされた)、北京へ送り返されて事実上廃された。翌1766年に死去したが、皇后としての葬礼や諡号は与えられなかった。 | ドラマでは後宮の陰謀の中心人物として描かれる。断髪の理由は史料に残っておらず、ドラマが示す動機は創作による解釈。 |
| 乾隆帝(弘暦) | 乾隆帝(弘暦) | 実在 | 清の第6代皇帝(1711〜1799年)。祖父康熙帝の在位年数を超えないとして1796年に嘉慶帝へ位を譲ったが、太上皇として死去まで実権を握った。十全武功を誇り、詩作や美術品の収集でも知られる。 | 後宮の妃たちとの恋愛や駆け引きが物語の中心で、政治・遠征の面はほとんど描かれない。 |
| 富察傅恒 | 傅恒 | 実在 | 富察皇后の弟。軍機大臣として乾隆帝に重用され、金川の役やビルマ遠征などで軍を率いた。1770年に死去。 | 主人公との恋愛は創作。史実で二人の関係を示す記録はない。 |
| 爾晴 | — | 架空 | 該当する実在の人物はいない。史実の傅恒の正室は那拉氏とされる。 | ドラマオリジナルの登場人物。 |
区分:実在=史料に記録のある人物/合成=複数の人物をもとにした人物/架空=ドラマオリジナルの人物
物語は主人公が姉の死の真相を追って後宮に入るところから始まるが、モデルの魏佳氏にそのような経歴は伝わっていない。史料からわかるのは、内務府の家から後宮に入り、位を上げていったという経過がほとんどである。
富察皇后は1748年、乾隆帝の山東行幸に同行した帰り道で病没したとされる。前年に幼い皇子を天然痘で失っており、心身ともに弱っていたと考えられている。ドラマの最期の描き方は脚色である。
日本語題の「王妃」や「皇后」の呼称から皇后に上り詰めた印象を受けるが、魏佳氏の生前の最高位は皇貴妃。皇后の位は死後20年たった1795年、息子(後の嘉慶帝)が皇太子に立てられた際に追贈された。
傅恒は実在の重臣だが、主人公との恋愛を示す史料はない。傅恒の妻とされる爾晴もドラマオリジナルの人物である。
継皇后が1765年の南巡中に髪を切って失脚したこと自体は史実だが、なぜ切ったのかは記録に残っていない。乾隆帝も詳しい理由を公にしておらず、ドラマの描写はひとつの解釈にすぎない。
継皇后は1766年に死去し、皇后の葬礼は行われなかった。皇后を立てないまま、皇貴妃となった魏佳氏が後宮を取りまとめたが、1775年に49歳で死去した。1795年、乾隆帝は魏佳氏の産んだ永琰を皇太子とし、母の魏佳氏に孝儀純皇后の位を追贈した。翌1796年に永琰が即位して嘉慶帝となる。乾隆帝は1799年に死去し、孝賢純皇后・孝儀純皇后とともに裕陵(清東陵)に葬られた。
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