中国史年表

『瓔珞〈エイラク〉~紫禁城しきんじょうに燃もゆる逆襲ぎゃくしゅうの王妃~』は史実?実在モデルと史実との違いを解説

結論
時代
清(1736年〜1766年頃)
主人公のモデル
孝儀純皇后こうぎじゅんこうごう(魏佳氏ぎかし)
史実度
★★★★★2 / 5

主人公の魏瓔珞ぎえいらくのモデルは、乾隆帝けんりゅうていの妃きさきで嘉慶帝かけいていの生母となった孝儀純皇后こうぎじゅんこうごう(魏佳氏ぎかし)。富察ふちゃ皇后や継皇后けいこうごうなど主要な后妃こうひは実在するが、復讐劇ふくしゅうげきを軸にした物語の大半は創作。史実の魏佳氏ぎかしは生前は皇貴妃こうきひまでで、皇后の位は息子が皇太子に立てられた後に追贈ついぞうされたものだった。

史実度の内訳
  • ・主要人物の実在:◎(乾隆帝けんりゅうてい・富察ふちゃ皇后・継皇后けいこうごう・主人公のモデルなど主な后妃こうひは実在)
  • ・主要事件:△(後宮こうきゅうの陰謀いんぼうと主人公の復讐劇ふくしゅうげきは創作そうさくが中心)
  • ・時系列:○(皇后の死や継皇后けいこうごうの断髪だんぱつなどの大きな出来事の順序はおおむね史実に沿う)
  • ・人物像:△(史料に性格の記録がほとんどなく、人物像の多くは脚色)
DATA

作品の基本情報

原題
延禧攻略えんきこうりゃく
放送年
2018年(中国)
話数
全70話
描かれる期間
1736年〜1766年頃
BACKGROUND

時代背景

康熙帝こうきてい・雍正帝ようせいてい・乾隆帝けんりゅうていの三代は「康雍乾盛世こうようけんせいせい」と呼ばれる清の最盛期。1735年に即位した乾隆帝けんりゅうていは約60年在位し、新疆しんきょうの平定などで清の版図を最大にした。ドラマの舞台はその前半、北京の紫禁城しきんじょうの後宮こうきゅう。皇后を頂点に皇貴妃こうきひ・貴妃きひ・妃ひ・嬪ひん・貴人きじんと続く位階の中で、妃きさきたちが皇帝の寵愛ちょうあいと子の地位を競った。

CHARACTERS

登場人物と実在モデルの対照表

  • 魏瓔珞ぎえいらく実在
    実在モデル:孝儀純皇后こうぎじゅんこうごう(魏佳氏ぎかし)
    史実での人物像
    1727〜1775年。内務府に属する包衣ボーイ(皇室に仕える家)の出身とされる。貴人きじんから令嬪れいひん・令妃れいひ・令貴妃れいきひと昇り、継皇后けいこうごうの失脚後に皇貴妃こうきひとなって後宮こうきゅうを取りまとめた。後の嘉慶帝かけいていを含む多くの子を産んだ。
    ドラマとの違い
    姉の死の真相を追って後宮こうきゅうに入り、知略で敵を打ち破っていく復讐の物語は創作。史料には性格をうかがわせる記録がほとんど残っていない。
  • 富察ふちゃ皇后(富察容音ふちゃようおん)実在
    実在モデル:孝賢純皇后こうけんじゅんこうごう(富察ふちゃ氏)
    史実での人物像
    乾隆帝けんりゅうていの最初の皇后で、1748年に死去。質素しっそを好んだと伝わり、乾隆帝けんりゅうていとの仲は睦むつまじかったとされる。産んだ二人の皇子をいずれも幼くして失い、その後の東巡とうじゅん(山東への行幸ぎょうこう)の帰途に病で亡くなった。
    ドラマとの違い
    ドラマでは主人公の庇護者ひごしゃとして描かれ、最期も劇的に演出される。史実では行幸ぎょうこう先からの帰り道での病死とされる。
  • 嫻妃かんひ(輝発那拉ホイファナラ・淑慎しゅくしん、後の継皇后けいこうごう)実在
    実在モデル:継皇后けいこうごう(輝発那拉ホイファナラ氏/ウラナラ氏)
    史実での人物像
    嫻妃かんひ・嫻貴妃かんきひを経て、富察ふちゃ皇后の死後に皇貴妃こうきひ、1750年に皇后となった。1765年の南巡なんじゅんの途中で自ら髪を切り(満洲の習俗では喪もを意味し、大きなタブーとされた)、北京へ送り返されて事実上廃された。翌1766年に死去したが、皇后としての葬礼そうれいや諡号しごうは与えられなかった。
    ドラマとの違い
    ドラマでは後宮こうきゅうの陰謀の中心人物として描かれる。断髪の理由は史料に残っておらず、ドラマが示す動機は創作による解釈。
  • 乾隆帝けんりゅうてい(弘暦こうれき)実在
    実在モデル:乾隆帝けんりゅうてい(弘暦こうれき)
    史実での人物像
    清の第6代皇帝(1711〜1799年)。祖父康熙帝こうきていの在位年数を超えないとして1796年に嘉慶帝かけいていへ位を譲ったが、太上皇たいじょうこうとして死去まで実権を握った。十全武功じゅうぜんぶこうを誇り、詩作や美術品の収集でも知られる。
    ドラマとの違い
    後宮こうきゅうの妃きさきたちとの恋愛や駆け引きが物語の中心で、政治・遠征の面はほとんど描かれない。
  • 富察傅恒ふちゃふこう実在
    実在モデル:傅恒ふこう
    史実での人物像
    富察ふちゃ皇后の弟。軍機大臣ぐんきだいじんとして乾隆帝けんりゅうていに重用され、金川の役やビルマ遠征などで軍を率いた。1770年に死去。
    ドラマとの違い
    主人公との恋愛は創作。史実で二人の関係を示す記録はない。
  • 爾晴じせい架空
    実在モデル:—
    史実での人物像
    該当する実在の人物はいない。史実の傅恒ふこうの正室は那拉ナラ氏とされる。
    ドラマとの違い
    ドラマオリジナルの登場人物。

区分:実在=史料に記録のある人物/合成=複数の人物をもとにした人物/架空=ドラマオリジナルの人物

FACT CHECK

史実と違うポイント

1.主人公の「復讐」は創作

物語は主人公が姉の死の真相を追って後宮こうきゅうに入るところから始まるが、モデルの魏佳氏ぎかしにそのような経歴は伝わっていない。史料からわかるのは、内務府の家から後宮こうきゅうに入り、位を上げていったという経過がほとんどである。

2.富察ふちゃ皇后の最期

富察ふちゃ皇后は1748年、乾隆帝けんりゅうていの山東行幸ぎょうこうに同行した帰り道で病没したとされる。前年に幼い皇子を天然痘てんねんとうで失っており、心身ともに弱っていたと考えられている。ドラマの最期の描き方は脚色である。

3.生前に皇后にはなっていない

日本語題の「王妃」や「皇后」の呼称こしょうから皇后に上り詰めた印象を受けるが、魏佳氏ぎかしの生前の最高位は皇貴妃こうきひ。皇后の位は死後20年たった1795年、息子(後の嘉慶帝かけいてい)が皇太子に立てられた際に追贈ついぞうされた。

4.傅恒ふこうとのロマンス

傅恒ふこうは実在の重臣だが、主人公との恋愛を示す史料はない。傅恒ふこうの妻とされる爾晴じせいもドラマオリジナルの人物である。

5.継皇后けいこうごうの断髪だんぱつの理由

継皇后けいこうごうが1765年の南巡なんじゅん中に髪を切って失脚したこと自体は史実だが、なぜ切ったのかは記録に残っていない。乾隆帝けんりゅうていも詳しい理由を公にしておらず、ドラマの描写はひとつの解釈にすぎない。

AFTERMATH

史実の「その後」

【ネタバレあり】史実ではその後どうなった?(タップで開く)

継皇后けいこうごうは1766年に死去し、皇后の葬礼そうれいは行われなかった。皇后を立てないまま、皇貴妃こうきひとなった魏佳氏ぎかしが後宮こうきゅうを取りまとめたが、1775年に49歳で死去した。1795年、乾隆帝けんりゅうていは魏佳氏ぎかしの産んだ永琰えいえんを皇太子とし、母の魏佳氏ぎかしに孝儀純皇后こうぎじゅんこうごうの位を追贈した。翌1796年に永琰えいえんが即位して嘉慶帝かけいていとなる。乾隆帝けんりゅうていは1799年に死去し、孝賢純皇后こうけんじゅんこうごう・孝儀純皇后こうぎじゅんこうごうとともに裕陵ゆうりょう(清東陵しんとうりょう)に葬られた。

TIMELINE

ミニ年表

  1. 1661年康熙帝こうきていの治世(最盛期へ)
  2. 1735年乾隆帝けんりゅうていが即位する(翌年、乾隆けんりゅうに改元)
  3. 1748年富察ふちゃ皇后(孝賢純皇后こうけんじゅんこうごう)が東巡とうじゅんの帰途に死去
  4. 1750年嫻貴妃かんきひ那拉ナラ氏が皇后に立てられる
  5. 1760年魏佳氏ぎかしが皇子永琰えいえん(後の嘉慶帝かけいてい)を産む
  6. 1765年南巡なんじゅん中に継皇后けいこうごうが断髪だんぱつし、北京へ送り返される。魏佳氏ぎかしが皇貴妃こうきひとなる
  7. 1775年皇貴妃こうきひ魏佳氏ぎかしが死去
  8. 1795年永琰えいえんが皇太子に立てられ、魏佳氏ぎかしに孝儀純皇后こうぎじゅんこうごうの位が追贈される
  9. 1796年乾隆帝けんりゅうていが退位し、嘉慶帝かけいていが即位

● 印の出来事は、年表の解説ページにリンクしています。

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